海【汚れたパラダイス】

 地元には海があった。白い砂浜がだらだらと続く海だ。夏にもなれば海水浴場として開放されて、暇を持て余した人々でごった返す。

 海は好きだった。けれど、夏には絶対に近付かない事にしていた。

 誰もいない海の、ただ寄せ返す波だけが絶えず子守唄を囁くような、そういうところが好きだった。白く煙る吐息を吐きながら、凍える風が吹き付けてくるのを肌に感じるのが好きだった。夜の闇を溶かし込み、おどろおどろしい気配を潜ませてひっそりと揺れる水面を眺めるのが好きだった。

 海は大きく、孤独だ。

 そうあるべきだとさえ思う。

 人の足を引っ張り、底へと引きずりこんでいくような魔力を秘めた夜の海が好きだから、夏の海にだけは行かない事にしていた。

 憧れている人が自分ではない別の誰かに自分の知らない顔を見せて笑っているのを見る事ほど辛い事はない。

 孤独を愛する人間が得られる数少ない楽園が、他の多くの幸福な人々によって変えられてしまうなんてそれこそ地獄そのものではないか。

 地元を離れて十年近く経ち、帰省の際に気紛れに立ち寄った海は、いつか失ってしまった青春をあの日と変わらずそこに秘めていた。あの頃の楽園は既に見失って久しく、この海へ戻ってくる事はもう二度とないかもしれない。

 それでも、冬の夜になれば、あの日に憧れた幻想は永遠にここにあり続けるのだろう。

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短いのあれこれ 側近 @rusalka000

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