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 移送車から降りる前に、神木はハルキゲニアの拡張デバイスである白茶色のイヤーカフス型の通信器を右耳へ付けた。

 黒い塊が銃型デコーダーへ形を変え、神木がそれを手に取ると、自動で立ち上がったソフトが走り出し、同時にハルキゲニア感覚交信ソフトが展開された。

 神木のドッペルアバターはハルキゲニアにアクセスし、イデア・ファイルと信号を取り交わす。神経回路の限定的な接続先を共由して五感に干渉すると、幼少期から不調も無くほとんど取り換える機会のなかった神木の人工被膜レンズではなく、網膜に直接信号を送り、視界に指示を表示した。

 視覚の情報構築が速やかに済まされ、次に聴覚、嗅覚、味覚、触覚と続く――所有者登録のされたデコーダーは昨晩よりも多くの機能へのアクセスを解除したが、それによって神木が、何か非実態的な寄生虫に肉の内を侵されるとか、または神経回路のいくつかを好き勝手に再接続されるような生理的嫌悪を知覚するような事はなかった。黄色味を帯びた数枚のサークルが目の動きに合わせて回転しながら動いても、風とも声ともつかないノイズが効果音的に鳴っていても、あらゆるものの主導権は常に自分自身にある。うっかり不要な信号を受け取る可能性を危惧することはしたが、拡張された五感が心身へ余計なストレスを与える事はないとわかると、神木は安堵した。

 神木と柊、天津、玄澤は、昨晩と同じ旧東部第二工業地区を歩く。遠くからだと完全な黒に塗り潰されたように見えた場所は、実際には何の変哲もないただの夜の姿をしていた。

 半分が解体されて更地になりつつあるオフィスエリアから工場エリアへ移るための鉄橋を渡る途中、神木は眼下に遠く広がる旧東京都の街を見た。

 コアガーデンを含む超高層ビルが放つ有色の光と墨を落としたような黒が奇妙なコントラストを描き、夜の都市を飾る。ビルからの光は夜の空もを鮮やかに染め、〈境面回路〉(※〈領域〉をはじめとする仮想現実社会の社会基盤の役割を果たす計算機の総称。本体は地上や衛星に点在する)のシンボルである歯車を照らし出していた。あの殆ど欠けて存在感の薄まった三日月の姿はない。目に煩い彩色の景色の向こうに、姿を消してしまったらしい。

 数十分前までいたはずの世界を俯瞰していて、それらがまるで酷く遠い存在のように感じたりしないかと憂いたりした。しかし、感情値は目立った変化を見せない。寧ろ普段以上に安定していて、どこかそんな感性に期待していた自分を密かに恥じながら、神木は遅れを取り戻すために歩みを速めた。

 二十二世紀初頭の雰囲気を残す旧式の工場地帯はどことなく寂しい風情を残す。特にここは二千百八十二年の爆発事故を境に閉鎖されており、浮かれた不法侵入者や事実無根の都市伝説なんかの標的になったりして、現代の廃墟にしては随分と荒れていた。

 広い通りを進んで、突き当たりの倉庫の前で立ち止まる。ハルキゲニアが算出した異常な周波は、厳密にはこの奥のファクトリータワーから出ているようだ。

 神木は、柊から送られてきた地図を視界に展開する。

 〝三五.五六***/一三九.八零***〟ゲート〝C-9〟。

『月齢0.2』天津が無発声でいった。『仲塚からだ。値の管理は昨日と同じか? スキルセーブが役立たずなせいで、とんでもない数字が出てきたりしたが……』

 彼は、自分の右腕と左腕に取り付けてあるベルト型の制御装置をそれぞれ一瞥する。柊は少し考えた後、同じ形式で答えた。

『翔君は少し膨らんでもいいや。尋斗はそのままでもいいけど、神木君をまる焦げにするようなら再計算して』

 神木がぎょっとした様子で柊を見ると、柊は冗談だと笑った。

 天津と玄澤が黒い手袋をはめ、能力信号展開・出力器マキナデバイスの核となる水晶を模した計算機を片手に微調整を行う間、神木は柊とハルキゲニアの機能のうち幾つかをテストした。

 五感に関する機能はどれもイデア・ファイルと結びつき、必要に応じて調整されるため、よほど神経質になって何かを削除したくなる衝動にでも駆られたりしない限り介入する必要はない。

 問題は通信手段だ。これは、ソフトによって視認可能となった〈代理自己〉に任意の言葉を書き出し、イデア・ファイルの信号に変換してからハルキゲニアで処理させるものである。それに慣れない神木の〈代理自己〉は、単なる思考のグループや伝達を目的としたグループ、果ては概念が形成する半ば偏執的な価値のグループに至るまでを対象としてしまい、言葉の選定基準があやふやになっていた。さすがに頭の中、、、がそのまま送信されるようなことはなかったが、神木は文章として成り立たない単語の羅列を何度も発信し続け、結局それは天津と玄澤の準備が整うまで解決しなかった。

『まあ、まあ、こういうのはゆっくり慣れていくものだから』柊は無発声で伝えた後「しばらくは声に出して話すといいよ。大抵それでうまくいくんだ。そのうち自然とできるようになる」といった。

「すみません。研修中、無人機に向かって練習したときは何も問題がなかったのですが」

「そりゃあ、お互いにパターン化されていたからでしょう。既にあったものを特定の形式に置き換えただけの信号と、複雑な精神とでは比べるまでもないね」

「うーん。こういったものは、昔から苦手なのです」

 神木は一瞬、ハルキゲニアを介して、〈領域〉内のシミュレーションが構築しっぱなしにしている(と信じる)全く不必要なオントロジーの一切を削除してしまいたい衝動に駆られた。けれども、ハルキゲニアはそもそも〈領域〉へのアクセス権限を持たないらしい。

 柊が気遣うように神木の肩に触れた。

「大丈夫、大丈夫。得手不得手なんて誰にでもあるが、これは早々にクリアできるものだと言うよ。尋斗だって最初は全く駄目だったんだ。ねえ?」

 天津は振り返ると、迷惑そうな顔をした。

「あの頃は今とは別の種の悩み事が多くて、どいつも分類せず放置していたからだ」

 玄澤が訝しげに口を挟んだ。「お前のサイコ・プラットフォームは未だに世紀末、、、だけどお、それより酷い時期があったのかあ?」

「失敬な。これでも、頑張って見直したほうなのに」

 天津はいらだった様子で眼鏡を外すと折りたたみ、彼から見て右側にある倉庫へ真横に差し出した。眼鏡は〝見えない膜〟に当たって、接触した辺りのテクスチャを剥がした。

 〝膜〟は多重の円からなる気味の悪いフラクタル模様を浮かべていて、視覚的にはつるつるとしていそうな印象を受ける。それは水を零したような速度で広がると、あっという間に建物とその上空をすっぽりと覆った。

 この〝膜〟とそれに覆われた空間について、〈境面回路〉の解析ソフトは分類不可能の結果を返した。〈境面回路〉で複製されたジオラママップは奇妙な空間だけを切り取って表示し、信号の送受信は一切行われていない。

 神木は、さっきまであんなに吐き出されていたノイズが完全に遮断されているのをハルキゲニア越しに確認した。

「いつ見てもキモイ」

 玄澤が不愉快そうに吐き捨てた。

「干渉さえしなければ、《ポルタ》は発現しないのに」

「見えないだけで、そこにはずっと在り続けるんだけどね」

 柊がポケットからジッポライターを出しながら「ザインで構築したシステムにとっては、時に安定化装置と同等の存在になるけれど、致命的な不具合を招くこともある。今の、スキルセーブの件のような」彼は、神木と目を合わせた。

 絶縁都市の《門》を開くために柊が行ったのは、ただ自分のシンボルをぶつけることだけだった。壁に向かって投げたジッポライターは正体を明かし、三角形を基調とした複雑なシンボルが壁に溶けこむと、その場所に罅を入れた。

 途端に、冷たい風が奥から吹き込んだ。なんとも言えない腐臭と、鉄錆の交じったような匂いが鼻をつく。キリキリと甲高く奇妙な音が微かに聞こえ、この先が明らかに異質な環境であると知る。

 神木はハルキゲニアが微かに存在値を測定したのを見た。ザインのシステムが何らかの事情でここの存在を認め、不可侵領域として認識したのだ。

 もしここに不変のアクセスコードが存在したならば、ザインは最上級の警告文を発するだろう。今、この先に立ち入ることが可能なのは、この先の空間への干渉を許されたコードを保有するものか、世が秀才番号エリートコードとして認める例外のみである。

 神木は第六感のようなものが鳴らす警鐘を背中で感じていた。同時に、自分の肩書を呪いたい気持ちと向こう側への興味が入り混じった感情が沸くのに戸惑っていた。

「大丈夫かい?」見透かしたように、柊が声を掛けた。「引き返すなら、まだ間に合うよ」

 神木は首を振った。

「いえ、大丈夫です」

 〈代理自己〉の形成する情緒パターンと既存のメンタルケースがこれ以上大きく乖離して、精神が不安定になるようなことさえなければ。しかし、そこに関しては、神木には根拠のない自信があった。今それを正確に示すツールをすぐに提示することは困難だが、少なくとも、絶縁都市に干渉するのがこれで二度目になることは理由にはならない。

 神木は、《門》の罅の入った辺りを撫でた。硝子の様な膜が剥がれ落ちて、その奥から完全な黒が顔を出す。もう一度手を伸ばすと、触れた位置を中心に波紋が広がった。脆くなった膜は全て剥がれ、一番背の高い柊が通過するのにも困らない大きさの黒が開いた。

「誰から行くんだ? 誠也、神木」

 天津が眼鏡を掛けなおしながらいうと、柊は神木を目で指した。知的好奇心に脅迫された恐怖が鳴りを潜めて、邪魔をする情緒パターンを失った神木が、黒へ指先を沈めているところだった。

 神木のハルキゲニアは、向こう側の環境に合わせて五感を調整する。触覚は黒に関して何の情報も伝えてこなかったが、向こう側とこちら側の温度の差で、境界ははっきりとわかった。

 視覚が黒を解いて、少しずつ向こう側を映し出す。

接触ダイブ」天津がいった。「また夜明けを迎えられますように」

 二十三時四十三分。神木の瞳は白茶色に染まり、デコーダー内の計測器が音を立てて走りはじめた。

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