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「もし君か、君のドッペルアバターのどちらかが助手席に座る事を拒んだなら、僕はそれを口実にデスクルームへ戻るつもりだった」

 専用道路を走る移送車のなかで、柊はいった。

「判断はキミに任せたい。昨晩、あんな無茶をしたのはそのためだったんだ。“第四世代”と呼ばれるキミ達のドッペルアバターなら賢明な判断を下しただろう。『組み掲げた幸福論に誓い成すべきを為せ』、そして『我々は無人の〈領域〉を歓迎しません』」

『ユキムラには、そもそも明確な幸福論が無いんだよ』

 ペちん。端末を叩く小気味よい音が響く。端末を見下ろしたまま、神木は「複雑なのです」といった。

「あっはっは! 地雷を踏んだかな?」

「そんなことはありません。……僕の幸福論が、昔から曖昧だったのは確かなのですが」

 柊がハンドルから手を離すと、移送車は自動運転に切り替わる。彼は煙の出ない電子煙草を咥え、続きを煽るような相槌をうった。

 神木は端末に指を滑らせ、その上に小さな白い球の映像を浮かべた。玉の中に指を沈め、反対側の端をつまんで引くと、裏返された玉は灰色の経線と赤い緯線による骨組みだけの玉になった。

「幸福論のシミュレーションかい」

「僕が秀才番号になる一ヶ月前に行ったものの一部です。点が小さいのは、殆どが、情緒パターンから感情値が安定する環境の情報しか含まれていないためです。他の値が空白なので、一定の間隔で変化して、単一のものではありません」

 小さな光の粒が、中の線を縦横無尽に動く。感情値とは、メンタルケースが変動する際に発する信号を変換し数値化したものだ。この光の粒は、その情報の他に、タグを形成するためのフォーマットが含まれたナノマシンの集まりである。それらは、端末の表面から次々と浮かび上がっていた。

 神木の〈代理自己〉は結果として幾つかのシンボルを作りかけるが、どれも完成を前に消失してしまう。水面を漂う海藻を思わせるモヤのような線だけが残り、それが中途半端にそれらしい形を保つせいで、誤認識したドッペルアバターが全く無関係なタグを乱発する。

 柊がフロントガラスに向けて手を翳し、自分の〈代理自己〉へ同じシミュレーションを要求すると、複数の正確なシンボルが展開された。神木のものとは違い一つ一つに含まれる情報タグが多いため、シンボルをスライドさせる度にラグが発生し、柊は苦笑した。

「形にならない結果の存在は知ってる、特に最近は決して珍しい現象でもないことも。けれど、秀才番号ではキミが初めてかもしれない。最後に更新したものはどうだろうか」

「十日程前のものがあります。対策課への配属に、最終的な合意を示した時のものが」

 神木は玉を消して、今度は同じ程の大きさで三次元体のグリッドを作った。神木がもう一度、同様のシミュレーションを走らせると、そこに現れたのは、歪に揺れながらも何とか形を保っている一つのシンボル。

「こうして、ちゃんとした形になったのは、多分これが初めてです」

 いいながら、神木はふと我に返ったように顔をあげ、柊の様子を伺った。柊が揺らぐシンボルを凝視するのは、好奇心からなのか、不確かなものへの嫌悪からなのかはわからない。神木は流れのままにシミュレーションを開示した事を、今更になって後悔していた。

 今日、正確な幸福論を持たない成人に対して第三者が抱く印象はあまり良いものでは無い。幸福論は本来、第二次性徴の発現を以って抽象的だった精神コードが具体性を持つ無数の結果を生み出す(※これは成長と共にアクセスコードの羅列が修正される為と言われる)。それがないということは、「私はこの先のどのバージョンの私とも干渉せず、よってどの一切にも解を与えない」とうたっているのと同じだ。柊は相変わらず訝ってシミュレーションを眺め、柊の代理自己はサンプル用のコピーを要求してきたが、神木へは一体どんなラベルを貼ったのか開示する事はしなかった。

 思い当たるのは“背徳”か“未発達”、もしくは「”よだか、、、”らしいな、キミは」

 神木がイエスの意を込め僅かに顔を伏せると、柊は不意を突かれたように吹き出した。

「まぁ、それも”個性”だと考えてもいいと思うがね。だけど、それなら尚のこと慎重にならなければ。つまりキミがここでどれ程を目の当たりにし、代理自己がどんな情緒パターンを形成するか、まるで見当がつかない。一時間後にはやっぱり無理だと喚いて、逃げ出すかもしれない」

「わかっています」神木は少し躊躇ってから首を振った。

「でも、あの。今晩、ここに来ると決めたのは僕自身です。

 秀才番号という存在が、”自己決定で道を踏み外すことのない完璧な幸福論を持つ”のなら、結論は一つしかないと思うから……」

『ウソ。妥協したんでしょ』

 さち丸がいって、神木がまた端末を叩いた。

 柊は何も言わず座席に座り直して、運転を手動へ切り替える。彼らは無言のまま全てのソフトを終了させ、車内は薄暗い青の光に支配された。

 少しの間があって、フロントガラスには、目的地が近いことを示すピクトグラムが映った。柊は、I型ハンドルを片手で動かしながら、何かを深く噛み締めるように数回頷いた。

「悪いね、余計な事を聞いて。どこかの誰かさんから、半ば強引な勧誘でも受けたんじゃないかと心配したんだ。けれど無用だったらしい。僕は君の選択を尊重する」

 それから、続けていった。「ただ、自分で決めたというのなら、もう少し自信を持ちたまえ。そもそもよだかとはいえ秀才番号なのだから、ここに縋らなくてもよいとは思うけれど、今は他にないのだろう。キミが本当の答えを出せたなら、ドッペルアバターとの誤差も小さくなるさ」

 目的地を前に、移送車は減速する。柊は矩形の黒い塊を片手に、あどけない笑みを浮かべた。

「キミは随分と不器用らしいから、先に伝えておくよ。僕はキミにとても期待している。けれど、キミがそれに応える必要はない」

 神木は、何も答えなかった。

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