霧雨谷に竜呻く

皇海宮乃

プロローグ

 天高く空を行く、大きな白い鳥を見送りながら、私は手を振っていた。解き放たれた御役目から逃げるように去った娘に、遠く、もっと遠くへと願うように見つめながら、手を振り続けた。


 弱った体は、指を動かす事すらかなわず、操る事のできない落涙が頬をつたい、乾いた肌の上を滑るように落ちていく。


 急速なだるさと、遠ざかる意識、もう、自分の瞳は開く事は無いのだろうとあきらめて、弱るにまかせていると、閉じた私の瞳は開かず、心臓は鼓動を止めた。


--


 川沿いを進む列車に揺られながら、鷹取由宇たかとりゆうは鮮やかな緑の山をぼんやりと眺めていた。新緑の緑が眩しいこの季節に、母の実家へ戻る事はあまりない。五月頭の長期連休は日頃あまり混雑しないローカル線すらも空席が埋まるので、母が嫌がるのだ。


 向かいに座っている母は、単線エリアに入ったあたりからうとうとと船を漕いでいた。


 由宇は眠っている母をちらりと見てから、手にしていた参考書を閉じて、うつりかわった車窓の風景を見た。田植えの終わった田んぼの中に点在する黒い岩達。塊状溶岩。朝吹山あさぶきやまと呼ばれる火山が200年ほど前に噴火した時にマグマが飛来して冷え固まった証なのだと、説明してくれたのは母だった。テレビでしか見たことの無い、どろどろした赤い塊が、あんなに遥か離れた場所から飛んできたなどと、とうてい信じられなかったが、ああして岩が残っているという事は、真実なのだろう。


 由宇は、瞳を閉じて空想してみた。夜空を流星のように飛来する炎の塊を。恐ろしげな光景を想起し、ぞくりとして、瞳を開けると、車窓の風景は、川の景色に変わっていた。


 朝吹山山麓を源流に持つ、辰女川たつめがわは、上流域に温泉を起源とした強酸性の水が流れこむせいで、かつては死の川と呼ばれていたものを、今は石灰を注ぐ事で水質が安定したらしい。


 温泉は天然にあるもので、それを人為的に中和するという事にどことなく違和感を覚えながら、火山域ですら生活圏としていく営みに驚いてみたりもする。


 そう、あんな風にエメラルドグリーンの川面に。


 その時、川面から何かがぬっと現れた。ワニのような、大型水棲生物のような。一度飛び跳ねたそれは、苦しそうに身をよじり、川からまるで立ち上がったように直立した。


 由宇は、あげそうになった声を飲み込み、よく見ようと窓に顔を近づけた。


 しかしそこにすでに生物の姿は無く、替りに成人男性ほどの背丈の人の姿を見出した。


「あれ……」


 母を起こそう、そう思った瞬間、列車はトンネルに入り、トンネル内を走行する音に、由宇の声はかき消された。


 大きな音と、トンネルに入った事による気圧の変化で、耳がキンとなる。どうやら鼓動も早くなっているようだ。


 幼い頃から、何度と無く見てきた光景のはずだった。あれは何なのか、錯覚だったのか。


 ドキドキしたままトンネルを抜け、再び川沿いの光景を見ても、当然ながら先ほどのような物を見つける事はできなかった。

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霧雨谷に竜呻く 皇海宮乃 @miyanon

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