風に吹かれて

伝説オムライス

風に吹かれて

 高校二年の秋の話。これは僕の話だ。

 部活も最後の新人戦が終わり、オフシーズンになり、朝練はなくなっていたが、僕は今までの習慣でつい早い時間に登校してしまった。いつもより早く自分のクラスの教室に着くと誰もいない教室にカバンを置く。否、窓際の一番後ろの席――漫画やアニメなんかでいう主人公が良く座っている席だ。そこに誰もいないがカバンが一つ置かれていた。

 僕の記憶が間違ってなければ、花田実咲という女の子の席だったはずだ。彼女は主人公というほど華やかではないが気だるげな雰囲気を持っていた。僕はあまりクラスに親しい友達がいないため、教室で誰かと話すということは稀だ。もちろん、花田さんも例外ではなく話したことはない。掃除の班が同じで事務的な会話くらいはしたことがあるかもしれない。

 僕は一人でいるのは割と好きな方だが、誰もいない教室は少しばかり居心地が悪い気がして、トイレに向かう。

 そこで、花田さんとすれ違うがもちろん挨拶なんてものはしないし、されない。仮に僕がおはようなんて挨拶しようものなら、きっと彼女は戸惑いつつ、おはようと返すだろう。お互い気まずくなってしまって、教室に戻りにくくなるだろう。それは彼女にも申し訳ない、だから挨拶はしない。こんなだから友達が少ないのかもしれない……

 そんなあいさつしないことの言い訳を誰に聞かれた訳でもなく考えながら用を足す。朝の寒くなり始めた空気から室内にきたばかりの手を容赦なく水飲み場の冷水が流れる。

 教室に戻ると誰もいなかった教室に花田さん一人が座っていた。机に置いた本に目を落としている。何の本を読んでいるのかはわからないが集中しているようだ。僕は席につくとカバンから英語の単語帳を取り出し、英語の小テストの勉強をする。

 英語の授業の初めに行う英単語三十語ほどの小テストの勉強をするのは初めてだ。いつもは何も勉強せずに小テストに臨むが、今日は早く来てしまったので暇だから取り組んだ。

 慣れないことのためまったく集中できず、視線を窓の方にずらす、相変わらず花田さんは読書に集中している。僕も明日からは小説でも持ってこようかと考え、明日も早く学校に来るつもりなのかと一瞬思ってしまったが、悪くないかもしれない……

 集中できない勉強を取りやめ、耳にイヤホンを差し込み、ウォークマンから好きな音楽を聴く。これは友達がいない僕のいつもの休み時間の過ごし方だ。

かっこつけで聞いているジャズの好きな曲の音が耳を流れる中、何人かのクラスメート話しながら教室に入ってくる。イヤホンで音楽を聴いている僕もそれに気づくほどの大きな声だ。どうせ僕には関係のない内輪の話だろう。好きな音楽に雑音が混じり、不機嫌になる自分の器の小ささに少し嫌気がさす。もう一人の教室の先着者、花田さんはどういう反応なのか気になり、彼女の席の方に視線をやると、彼女は僕のように不機嫌そうな反応をするでもなく、集中している。

教室についた騒々しい二人の男子生徒が教室の窓を開ける。この季節にも関わらず、僕や花田さんに断りもなく、顔に汗を浮かばせたほうの生徒が暑い暑いと言いながら学ランの上着を脱いで、シャツを扇いでいる。

 彼らが開けた窓から入る冷たい空気が廊下側の僕にも流れてくる。吹き込んで来る風が花田さんの短い黒髪を揺らす。それにショートヘアの好きな僕は目を奪われる。彼女は右側の耳の上の髪の毛を、本を抑えていない方の左手で整える。とても儚げで美しい一瞬の出来事を僕は見逃さなかった。


 その日から僕は再びその状況が見たいと思ったこともあって、朝練があるときと同じ時間に登校するようになった。花田さんの髪が乱れる状況がなければならないと考えた僕は少し早めに自転車を漕いで、汗をかく。そして、暑いことを装い、窓を開ける。もちろん僕はこの間のクラスメートと違い、キチンと窓を開けるときは花田さんに断りを入れるつもりだ。

 計画通りに少しばかり上がった体温で校舎の階段を上っていると汗が頬をつたってきた。教室に着くと今日も花田さんは読書をしながら席に座っていた。

 僕はカバンを自分の席に置くと、はやる気持ちを抑えて窓側に向かう。窓を開けてもいいか断りを入れなくてはならない。少し汗ばんでいるため汗臭くないか少し気になったが、窓のサッシに手を掛ながら、声をかける。

「窓、開けてもいい?」

「……うん」

 突然話しかけられたからか、彼女は少し間をあけて返事をした。普段、話したこともない人から話しかけられたら多少なりとも驚くのが当然かもしれない。

 返事をすると彼女はすぐに読書に戻ってしまった。ここでデキる男ならすぐに世間話や何を読んでいるのか尋ねるのだろうが、コミュ障気味の僕には今の問いかけですら、緊張してしまうのだ。

 自分の席から風で髪が乱れ、整えるのを見るために僕も読書をしつつ、風を感じるたびにチラチラと彼女の方は伺う。気付かれたら不審に思われてもおかしくはない頻度で見てしまっていた。しかし、彼女は読書に真剣で気付きそうもなかった。

 しばらくすると風が吹き込み、彼女の髪が乱れた。僕は興奮しつつも息をのむ。少しして、彼女が例のごとく左手で右の髪を整える。

 その様子をカメラで撮って切り抜いてしまいたいと思うほどだ。気だるげな雰囲気と読書と少しだけナルシストに見えなくもないが、僕はそうは思わなかった。


 そして、こんなことを続けて一週間が経ったが結局、窓の開閉の承諾を得るだけで、ほかの会話をできずにいた。

 いつも通り、今日も承諾を得て、窓を開けようと手をかけていると突然だった。

「あのさ、今日は寒いから開けないで」

「あ、わかった。いつもごめん……」

発散できずにこもっている熱さで席に戻ることを忘れて、窓際でシャツを扇いでいると普段は本に向けられている彼女の視線が僕に向いていた。

「最近、来るの早いよね……」僕はハッとして返事する。

「朝練なくなったからその分」

「そっか……」

せっかくの会話が途切れさせないために今まで聞けなかったことを聞く。

「いつも本読んでるけど、何読んでるの?」

「小説かな、これ」

 そう言って彼女は僕に表紙を見せてくる。僕も昨年読んだことがあった作品だった。

「それ、僕も去年、文庫化されてすぐに読んだよ。面白かった」

「じゃあ、ネタバレしないでね! この作家さんの面白いよね」

彼女の声が少しだけ高くなったような気がした。うんと返事をしようとしたが彼女をすでに視線を本に戻していたので、返事をするのは野暮だと思い返事はしなかった。

 今日は帰ってその本を読み返そうと思い、授業をいつも以上に早くオワレオワレと呪った。


 昨日は帰宅してから一気に花田さんが読んでいた小説と同じものを読み返してしまった。一度読んで、最後のどんでん返しが分かっていたのにどうしてか前よりも面白く感じた。今年の修学旅行の場所がその小説の舞台なのを思い出した。少し楽しみになった。

 一冊を通して深夜まで読んだためか普段よりも眠かったが、二番乗りで教室に行くために睡魔に打ち勝って重い体を布団から引きはがし、学校へ向かう。


 上機嫌に自転車を漕いで学校に向かったのでいつもより五分ほど、早く着いた教室にはまだ誰もいなかった。まだ花田さんが来ていないことを残念に思いつつも、部活用のカバンから制汗剤を取り出して使う。今日は窓の開閉の承諾なんかではなく、話しかけようと意気込んでいた。制汗剤がひんやりと僕の首筋を冷やす。

 一息ついて座って、昨晩読んだ小説とは別の作家の小説を読んで数ページも読んだところで、僕のすぐそばの教室の扉が開いた。振り向くと花田さんと目が合う。

「おはよう」

 目があった気まずさでも、今までならしなかったであろう挨拶をした。

「おはよ……」

 彼女は雰囲気通りに気だるそうに挨拶し返すと「何読んでるの?」と尋ねてきた。

「ミステリー。昨日話した作家とは違う人だけど」

「ふーん、読んだことない…… 私は昨日のやつはもう読んだよ、最後驚いたし、面白かった」

「僕もなんとなく読み返したくなって昨日、それ帰ってから読み返した」

「え、あのオチ知ってるのに読み返したの? 変わってるね。私はオチ知ってたら読み返さないよ」

「そ、そうかな。オチ知ってから、読むのもどれが伏線だったのか丁寧に確認できて好きなんだよ」

「そういう読み方する人もいるんだね……」そう言いつつ彼女は座席にカバンを置いてこちらに戻ってくる。

 彼女は僕の前の席に横向きに腰掛けて、だるそうに背もたれに左半身を預けてこっちを向いている。

その姿勢に僕はドキリとしてしまう。

彼女は少し話しかけにくい雰囲気で女子にしては背が高く、僕と数センチも変わらないであろう身長で、スラリと長い黒いタイツの脚がスカートから生えている。彼女もクラスには親しい友達がいないのかクラスメートと話しているところは見たことがないが、昼休みはいつも他クラスから友達が来て話しながら食べているのを見かける。

そんな彼女と親しげな距離で話す。

「私は今日からこれを読む」

そう言って手にしていた昨日の本と同じ作家の小説を僕に見せる。

「その作家にハマったの?」

「そんなところかな。とりあえず、数冊は読んでみることにしてるから」

「へー、僕は昨日のしか読んだことないや。ほかも面白いかな、今度買ってみるかな」

「じゃあ、私が読み終わったら貸す? そのかわりその今読んでるの貸してね」

僕は二つ返事で承諾した。そして世間話をしながら、この流れで、貸し借りのために連絡先でも聞こうとしたところで「じゃあ、明日ね」と言って、教室に何人かのクラスメートがやってきたためか彼女は自身の席に戻って行ってしまった。


 花田さんの去り際の『じゃあ、明日ね』という言葉を小説の貸し借りのことだと考え、大して読み進んでいない小説を数学の授業中も読み進めて、数学の初老の教員にバレて、没収はされなかったもののクラス全員の前で、注意され、罰として当てられた問題に答えられず、「小説もいいが、教科書も真剣に読みなさい」と小言をいただいてしまった。

僕は小さい声で謝りつつ、横目でチラリと花田さんの方を見ると彼女は笑っていた。笑っている花田さんを見られたからいいやと開き直った。

笑った花田さんはいつものけだるさとはまた違ってかわいらしかった。


翌日。

慣れ始めた早い時間の教室へ向かう通学路の景色がいつもよりも色鮮やかに映った。部活の練習で疲れているはずの身体がそれほど重く感じない。

駐輪場に自転車を止めていると、玄関に向かう花田さんらしき姿を見つけたので、少し早足で歩いて、彼女に挨拶をする。

「おはよう」

「おはよう。小走りでどうしたの?」

早歩き――否、小走りが見られて少し気恥かしかった。

「昨日、読んでた本読み終わったから……貸そうと思って」

「もう読んだんだ、早いね。私はまだかかりそう」

「あれ? 昨日、じゃあ明日って言ってたから……」

「ごめんごめん、あれは明日もまた話そうって意味」

昨日の数学の時のような笑みを浮かべながら、続けて彼女は言う。

「だから、数学の時に読んでたんだ」

 僕がうなずくと彼女は再び笑い出した。

二人で教室についてカバンを置くと、また花田さんは僕の前の席に僕を悩ませる座り方で腰掛けてきた。

「いや、ほんとごめんね、私もさっさと読んじゃうから」

「急がなくていいよ」

「だって今日は読むの持ってきてないでしょ?」

「そうだけど、急いで読むともったいないよ」

「別にいいよ。次貸してもらえるから」

 そういうと彼女は自分の席に戻って本を読み始めてしまった。僕はまた連絡先を聞けなかったと自分を責める。いったい、世のプレイボーイたちはどこで連絡先の聞き方を学ぶのだろうか。


 授業中。

 僕は昨日注意されたこともあって今日は授業中に本を読むことはしなかったが、ノートに落書きをしていた。昼休みのすぐあとの授業のせいか何人かの頭が上がったり下がったりしては、教員に注意されている。

「花田、今どこやってるかわかるか……」数学の初老の教員が指名する。

「――加法定理のところです」

 彼女は指示された問題を若干の間をおいて答える。

「昨日のどっかの誰かと違って、授業も聞いているようだが、授業中に本は読むな」と言われていた。

 彼女はニヤリと笑って僕のほうに視線を向けてきた。いたずらっぽい笑みが彼女の後ろの窓から入る日差しのためなのかとてもまぶしく見えた。


 帰宅して、夕食を食べ、寝る時も花田さんの笑った顔がちらついた。

 たぶん、僕は花田さんが好きだ。窓から入る秋風に吹かれて乱れた髪を整えるのを見た瞬間に一目惚れしている。いや、はじめて会ったのは高校二年になってからだから一目というわけではない。ついこの間、突然目を奪われたからだ。たまたま、クラスメートが窓を開けて、たまたま風が吹き込んだから、全部たまたま――偶然。だから事故みたいなものだ。


 そして翌週。

 なぜ、翌週になってしまったか――それは花田さんが注意された翌日に彼女が風邪で学校を休んでしまったからだ。

月曜に花田さんの風邪が治っていることを心から――本当に心から願って迎えた月曜の朝。

僕は約束の本を忘れずにカバンに持ってきたを誰もいない教室でキチガイのごとく確認した。廊下すらもまだ早い時間のために静まり返っている。今日くらいは多少騒がしくても許せる気がする。なぜ僕がこんな寛大になっているか――それは小説を貸すときに連絡先を聞くための覚悟をしてきて、細かいことに気にならなくなっているからだ。

数分すると、花田さんが登校してきた。

「おはよ、なんかだんだん来るの早くなってるね。どうして?」

「早いことはいいことだから」

「こないだの小説のやつでしょ?」

「わかった?」

「当たり前じゃん。私もその返答を期待してた」

 そう言いつつ彼女は貸してもらう予定の本を差し出してきたので僕も貸す本を彼女に差し出した。そして彼女は自分の席に腰掛けて貸したばかりの本を読み始める。

 こういうやりとりができる日がくるとは思ってもいなかった僕は嬉しくなっていた。少し厨二病くさいが憧れのやりとりだ。

 しかし僕は、テスト終了間際にミスに気付いたときのように、連絡先を聞くことを忘れていることに焦る。

 いつもは五分ほどある二人しかいない時間が今日はたまたま早く登校してきたのであろうクラスメートがいたため、今から連絡先を聞きに行くのは恥ずかしくてやめてしまった。これほどまでにヘタレな自分を恨んだ日はない。しかし、恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。きっと、花田さんだって僕と話しているのは見られたくないはずという言い訳をしながら自分の太ももを強くつねった。


 今日、花田さんに借りた本は没収されたり、汚い手で触ったりしたくなかったために、僕は授業中に読んだり、昼休みに読むことはなかった。だから、ぼくは小説に挟まれていた便箋に気付かなかった。

 便箋を読んだ。


 便箋

伊藤君へ

 まず、読んでくれてありがとう。直接、口にするのは恥ずかしいので手紙という形の失礼をお許しください。

 クラスで一緒に同じ本の話ができる人ができてうれしい。私は正直今のクラスになじめていません。※ほかのクラスなら友達いるよ!

 私の勝手で悪いけれども、本の感想はメモ用紙に書いて本に挟んで返してほしいです。なんかその方が風情あるでしょ(笑)厨二病かな?

 今、読んでいてキャラ違うだろって思ったかもしれないけどこっちが素です。キモいと思ったら、晒して笑いものにしてもかまいません。(そんなことはしない人だと思ってます。)

 突然ですが、来月の修学旅行の自由行動一緒に行きませんか。私の班の方は彼氏と回るそうで私だけ残ってしまいます。わざとそうされているのかもしれませんが……

 一応、班行動が原則となっているので違反になるので、伊藤君がよければ、抜け出して、一緒にこの間のあの小説の聖地めぐりしませんか。例年抜け出しても最終的に班のメンバーでいれば怒られていないそうです。返事待ってます。連絡先 ××××××


 ××××××という連絡先が書かれた便箋に僕は目を通した。

 すぐに返信しようとしたがいい文面が思い浮かばなかった。もちろん、返事は「いいですよ」であったが、かっこつけた文章を考えて時間がかかって、便箋を見た翌日の登校前になってしまった。結局、『はい、便箋の内容了解。楽しみにしてる』にした。


 連絡先への返信に悩んで借りた本を読んでいないのに、夜更かしして疲れ切ったまま登校した。

 駐輪場で花田さんに遭遇した。こんな言い方はよくないが、今日はまだ会いたくなかった。しかし、彼女はまるで便箋の内容などなかったかのように飄々とおはようという挨拶だけして僕よりも先に教室に歩いていってしまった。

 教室に着くと彼女が本を返してきた。

「面白かったよ。私も感想は書いたから……」

「まだ、読んでないからもう少し待って……」

「急がなくていいよ」

 と言ってそそくさと廊下にでてどこかへ行ってしまった。


 そして僕は借りた本を休み時間を利用して読み進め、帰宅してから本腰を入れて取り掛かり、日付が変わって少しして読み終えた。そして、太陽が見えるほどの時間までメモ帳の切れ端に感想を考えて、できる限り丁寧な字、これ以上ないってくらい丁寧に書いた。


 そして、数週間が過ぎる、何冊かの本を似たようなやりとりをして貸し借りをしているうちに修学旅行の日を迎えた。

 そして、約束通りに自由行動を花田さんと一緒に過ごした――。


 そこからのことを事細かに書くというのは野暮ってもんだろう。彼女曰く何でもかんでも直接、人に伝えるってことは風情がないってことらしい。待ち合わせ時間はとうに過ぎていた。しかし、『会いに来る女の子がすてきな子なら、時間に遅れたからって、文句をいう男がいるもんか。』

 そういうことだ。

「ごめん、待った?」

「今来たところだよ」

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風に吹かれて 伝説オムライス @kuromegane5s

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