ペルティエ領編 定住
巻ノ二十六 水魚の交わり
私より帰りの早いダンは夕方私が帰宅すると大抵は畑仕事をしています。今日も畑に彼の姿がありました。私の気配にすぐに気が付いた彼が振り向きます。
「お嬢様お帰りなさい」
「帰りました。ねえダン、いい加減お嬢様と呼ぶのはやめてね。私、もう……その、貴方のお陰でもう娘ではないのですから」
彼に抱きついてそう言った私の方が恥ずかしくなってきました。
「そ、それはそうですけれども……」
見上げるとダンも顔を赤らめています。二人で畑の真ん中で抱き合って真っ赤になって沈黙していました。こんな些細なやりとりにも私は幸福感でいっぱいになります。
「ダン、キスして?」
「マルゴ様、どうなさったのですか?」
「今日は何だか貴方にうんと甘えたい気分なのよ」
「今日はって……貴女はいつも俺に甘えてきますけれども、そう口に出しておっしゃるのは珍しいですね」
「普段よりもっともっと甘えたいのよ。ねえ、キスしてギュッと抱きしめて?」
「貴女のお望みのままに」
ダンの体の温もりを感じ、私は安心しました。診療所で働いていると、やはり命の大事さが身に沁みます。
ここ数日、デュケット先生と私は難しい患者さんたちを抱えていたのです。
怪我や病気を治療して、元気になっていく患者さんたちを見るとやり甲斐を感じます。
けれどそれだけではないのです。辛い闘病生活を強いられる患者さんや怪我の後遺症に苦しむ人もおり、それに辛い別れも経験します。
その度に涙する私をデュケット先生は叱咤します。
『医者が泣いてどうする! 職業意識を持て、同情で治療が出来るか!』
デュケット先生も淡々と診察や往診を行っているようで、実は彼の心にもかなり
先日から一件、デュケット先生と私はどうしようもない難題を抱えていました。そのせいで私は眠れない夜を過ごしていたのです。
「何か悩みがあるのでしょう?」
「ええ。仕事のことなのだけれど……どう言ったらいいのか……」
「俺でよければ何でも聞きますよ」
ダンの腕の中から私は彼の濃い色の瞳を見上げました。温かい眼差しに気持ちも落ち着いてきました。
「ええ、でも今はまだ上手く説明出来そうにないわ。色んなことが一度に起こったものだから。もう少ししたらきっと貴方にもきちんと聞いてもらえると思うの」
「分かりました」
ダンは再びしっかりと私を抱きしめてくれました。
「ダン、うちの母に尋ねたいことがあるから文を書きたいの。明日仕事に行く前に街で出してくれる?」
「そう言えば、御母上なら来週ペルティエ領にいらっしゃいますよ。一週間滞在されるご予定です。うちの父からそう連絡が来たところでした」
「まあ、父は一週間も休みが取れたのかしら?」
「御父上は数日遅れて合流されるとのことです」
母が父を置いてここペルティエ領に一人で来るとはどういうことでしょうか。私に会うためなら両親二人で一緒に来るはずです。
「母だけが先に来るなんて……丁度いいわ、会って話もできるわね。文も書くから出してもらえる? 明日の朝に出せば入れ違いにはならないでしょうし」
「もちろんですよ」
「ダン、あの、両親を我が家に泊めてもいい?」
「何をおっしゃいますか、貴女が御両親をお泊めするのに私の許可は要りませんよ」
「ありがとう」
「けれど御両親が隣の部屋でお休みの時は……声を控えて下さいね、マルゴ様」
ダンが何のことを言っているのか一瞬分かりませんでした。けれど、彼の表情からすぐに察して私は真っ赤になってしまいました。
「え? 嫌だわ、もうダンったら!」
恥ずかしくなって彼の腕から抜け出ようとする私をダンはしっかりと
「貴女のそんな顔を見ると俺はその気になってしまうのですが」
「それって私のせいなの?」
両親は結局滞在中、父の実家ペルティエの屋敷に世話になることにしたようです。
母がペルティエ領に到着したその日、私は夕方急いで帰宅しました。一旦帰宅して着替えてからペルティエの屋敷に母を尋ねて行こうと思っていたのです。
ところが、家の前に馬車が止まっているのが見えたのです。母の方から来てくれたことが分かった私は駆け出しました。
「お母さま!」
「マルゴ、お帰りなさい。まあ良く顔を見せてちょうだい? 少しほっそりしたわね。でも、以前と輝きが違うわ。私の娘は益々美しくなって……」
「お母さまも変わらずお元気そうですね。お父さまを王都に残してお一人で来られたのですか?」
母には話したいこと、聞きたいことが沢山ありました。
「ええ。ペルティエの伯父さまがね、この街の孤児院を視察して欲しいとおっしゃったのよ」
「まあ、伯父さまが……」
私の伯父は父の兄であり、現ペルティエ男爵で領主のことです。
「だから今回は仕事がてら貴女の顔も見に来たの。アントワーヌは三日後に合流する予定よ」
「私、これからペルティエのお屋敷に伺おうと思っていました」
「突然お邪魔して申し訳ないわね。ダンジュさんは私が到着した時にはいらっしゃったけれど、それから街に出掛けるって」
母がダンの名前を知っていることにも、彼が母の前に姿を現したことにも私は驚きました。
「お母さま、ダンの名前をご存じなのですか? それに彼にお会いになったのですか?」
「ええ。食事の準備は出来ているから二人でゆっくり親子水入らずでお過ごし下さいとのことよ」
「お母さま、ダンとは今日が初めてではないのですね……と言うことはお父さまも?」
「ええ。貴女の卒業式の日、ダンジュさんは私たちの所に挨拶に来て下さったのよ。名前も教えてくれて、貴女の側に一生仕えることをお許し下さいって、頭を下げられたわ。と言うよりも土下座までされたのよ」
私は全然そんなことは知りませんでした。目頭が熱くなりました。
「……わ、私……」
「マルゴ、幸せ?」
「はい、とても」
「それが私たちの一番の願いよ」
母と食事をしながら家族のこと、ここでの新生活のことや、仕事のこと、話は尽きませんでした。
「ダンジュさんはお料理も得意なのね」
「私が作るよりずっと上手なのです」
「素敵な旦那さまね」
私たちは書類の上では赤の他人です。けれど、旦那さまという言葉を聞いて、ああダンは私の夫なのだと改めて認識しました。
彼のことを時々旦那さまと呼んでみようとも思いました。
***ひとこと***
ダンジュ君、アントワーヌ君とフロレンスに『お嬢さんを下さい!』と頼みに行ったようでした!
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