巻ノ二十五 千里の道も一歩より


 翌朝、診療所に行く私にダンは再び説教じみたことを言い出しました。


「いいですか、お嬢様。いくら試用期間と言っても雇用主は最低賃金を払う義務があります。ただ働きをさせることは法に反していますからね」


「はい、分かっています」


「全く、貴女の御父上は副宰相で御姉様は司法院勤務だというのに……」


「だって私は法律には明るくないもの……」


「私が一緒に行ってあのデュケット医師にガツンと言ってやりましょうか? それとも司法院分署の職員のふりをして視察に参りましょうか?」


「いいのよ、ダン。私が世間知らずなだけなのですから。私一人で何でもするって決めているのです。ダンに一緒に来てもらったりしたら私また先生に馬鹿にされるわ」


「彼は貴女のことを馬鹿にするのですか?」


「多分先生は私の身分も素性も知っていると思うのよ。最初はお嬢さまが仕事なんて出来るのか、って疑われていたの」


「本当にお一人で大丈夫ですか?」


「ええ、私ももう大人の女性なのよ!」


「名実共に、ですね」


 自分で言って恥ずかしくなった私の唇にダンは軽く口付けました。私も彼の首の後ろに手を回してキスに応えます。


「貴女を放したくなくなる前に行ってください。ではまた今晩」


「今晩も来てくれるの、ダン?」


「何をおっしゃるのですか、私はもう貴女のお側以外行くところなどありませんよ」


 彼のその穏やかな笑顔にどうしようもなくときめいてしまいます。


「じゃあまた今晩ね。行ってきます」




 私はダンの作ってくれたお弁当を持って足取りも軽く診療所に向かいました。彼に言われた通り、勇気を出して何の取り決めもなくただ働きは出来ません、と先生に言うつもりでした。


 ところが、私が口を開く前に朝一番に先生から何か紙切れを渡されました。


「今までの一週間分の給金だ、ほら。見習い中は一日金貨一枚だが、今日からは金貨一枚銀貨二枚だ」


 それは小切手でした。


「ということは……」


「本採用だ、喜べ」


 私は信じられない思いでその小切手を眺めていました。


「あ、ありがとうございます、先生」


 良いことが重なりすぎて、夢を見ているような気分です。


「給金を払うのが遅れてすまなかった」


「い、いえ、そんな」


「俺は時々忘れるからちゃんと言ってくれよ。給料日は二週間おきでいいか?」


「はい、私もっと頑張りますっ! これからもよろしくお願いします!」


 私は深々と先生に頭を下げました。


「張り切り過ぎるとお前はいつも空回りするだろーが、ほどほどにしろ。それからその体育会系のデカい声の挨拶は止めろ、頼むから」


「はい、分かりました……」


 先生の言葉ももっともです。私は時々やる気だけで突っ走ることがあるのです。


 それで桶の水をこぼしたり、洗濯したばかりの手拭いを地面に落としたりするのです。私の運動神経が良くなかったらもっと惨事ばかり引き起こしていたことでしょう。


「お前が来てくれてから、随分と助かっている」


 デュケット先生が私のことを認めてくれました。驚きです。


「気力も体力も人一倍あると最初に申しました」


「だからお前がそのいかにも深窓のお嬢様風の外見で言っても説得力ゼロなんだよな。まあそれでも最初は見た目だけで判断して悪かった、ソンルグレ嬢、いやソンルグレ先生」


「あの、先生はやめて下さい。マルゲリットかマルゴとお呼び下さい」


「じゃあソンルグレと呼ばせてもらう」


 苗字で呼び捨てられるのは初めてで、新鮮でした。


「本当はな、三日もしないうちにカッとなってすぐに出て行くと思っていたのさ。悪かったな、怒鳴りつけてばかりで。根性は認めてやる」


「そんな、謝っていただくほどのことでは……」


「それに今のところは雑用ばかりだが、まあそのうち医者としての仕事もしてもらう」


「本当ですか? ありがとうございます」




 私は次の休みにペルティエの祖父母に報告にいきました。


「お祖父さま、お祖母さま、私デュケット先生に雇ってもらえました。これもお二人のお力添えのお陰です」


「良かったね。彼は一筋縄ではいかないだろうが、腕の良い信用できる男だからな。お前のことを本採用したのなら、彼に認められたということだ」


「マルゴ、領地に引っ越してきて一人で苦労しているかと心配でしたけれど、元気そうで安心したわ。それに貴女、なんだか内側から輝いて一段と美しくなったわよ」


 祖母にはウィンクまでされました。


「ロベールの奴も数日前に訪ねてきてね、報告してくれた。最初は胡散臭いと思っていた君のことも、良く働くから助かっているとも言っていた。それからね、彼は君が私達の孫だって分かっていたよ」


 確かにソンルグレ姓は珍しいですから、調べればすぐに分かることです。


「あいつも数年前に奥さんと子供を亡くして暫くは塞ぎ込んでいたんだが……彼の診療所はうちの領地に必要だからね。彼が診察を再開してくれて助かっているのだよ」


「まあ、そんなことがあったのですか……」


「ええ。あの頃の荒れたロベールは見ていられなかったわ……」


「元々そうだったが、独りになってからは益々頑固で一本気になってね。けれど診察代が払えない患者や専門外の家畜まで診るし、地元に大いに貢献している。マルゴも彼の助手としてしっかり務めなさい」


「はい、ありがとうございます。お祖父さま、お祖母さま」




 職人として働くダンは私より朝早く出かけます。二人とも仕事の日は私が主に朝出勤する前に家事をして、夕方先に帰宅するダンが夕食の準備をするという役割分担が出来つつありました。


 家の中の家具も少しずつ揃ってきて、家の裏には畑を耕して野菜を植えました。池がすぐ近くにあるので井戸を掘る必要はありません。


 ダンは池まで降りるための石畳の階段の先に小さな揚場を作ってくれました。これで池の水を汲むのが楽になりました。


 私たちのお城は着々と人が住むのに快適なものになってきました。街から少し離れた森の中で、私たちの家の他には何もありません。


 ダンは人目につきたくないだろうから、彼と一緒に住むのなら街から遠くても人の居ない所がいいだろうという考えで私はこの土地を選んだのです。


 森の中に二人きりなので私たちは自由で奔放に何でも出来ました。気持ちが高ぶったら家の中でも外でも私たちは抱き合い、熱い口付けを交わしました。ダンは時々私をからかったものでした。


「貴女が人里離れたこの場所を選んで家を建てた理由が良く分かりましたよ」


「違うわ! 貴方が人目を避けたいと思ったからです!」


「本当でしょうか?」




***ひとこと***

診療所にもめでたく本採用になり、二人の生活は着々と基盤ができています。


悪い子マルゲリットはご近所さんの目を気にする必要がない場所に新居を建てて……

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