巻ノ二十四 足るを知る者は富む
横抱きにした私を寝台にそっと下ろしたダンはそのまま私をきつく抱きしめました。彼はもう無言で、私たちにこれ以上言葉は必要ありませんでした。お互いの唇を貪り、衣服を脱がせ合うのももどかしく、体を重ねました。
ダンと結ばれた瞬間、私は感極まって涙が出てきてしまいました。
「す、すみません、痛かったですか?」
彼が慌てています。
「いいえ、ダン。違うのよ。私、こうして貴方と結ばれる日を長年夢見てきたから……嬉しくて……」
「俺はそんなお嬢様に対してもう歯止めがききません……」
私はその夜、夢うつつの状態でダンの声を聞いたような気がしていました。
「マルゴ、愛しています。貴女は俺の全てだ」
「ダン、初めて私のことマルゴって呼んでくれたのね。私も愛しているわ」
それは夢だったのかどうか、夢だろうが現実だろうが私は幸福感に満たされていました。
翌朝目が覚めると私は寝台の上に一人でした。
「ダン?」
彼はもうどこかに行ってしまったのでしょうか。
しばらくすると私も意識がはっきりしてきて、彼の気配を階下に感じました。それにパンの焼けるいい匂いも漂ってきていました。
私は寝台の脇に落ちていたダンのシャツを羽織って急いで下に駆け下りました。彼はズボンだけ履いた姿で厨房に立って野菜を切っています。
私が厨房に入っていくとダンは振り向きました。何だか照れくさくて彼の顔が直視できません。
「お早う、ダン」
「お嬢様、何ですかその恰好は?」
「だって、目が覚めたら貴方は居なくなっていたけれど、ここで気配がしたから急いで下りてきたの……」
「それでもですね……」
「ここには私と貴方だけでしょう? 『マルゴお嬢さま、はしたないですわ』って叱る侍女は居ないもの」
それでも流石に恥ずかしくなって着ていたダンのシャツの前を合わせます。
「あの、目のやり場に困りますし、食事の準備どころではなくなりますから……」
「貴方だって上半身何も着ていないでしょう? 私だって目のやり場に困ります。お互いさまよ」
私はダンに近付いて彼を悪戯っぽく見上げます。
「全く貴女という方は……悪い子だ」
ダンにまた悪い子と言われました。私はどうしようもなく体の奥が熱くなってきました。
ダンは持っていた包丁を置いて私をしっかりと抱きしめ、私の唇を優しく奪いました。彼がこんなにも身近に居るというのが信じられませんでした。
「ダン……それでも私、お腹がぺこぺこなのよ。貴方が用意してくれた朝食が冷めないうちに食べたいわ」
「そうでした。先に食事にしましょうか。お嬢様はもちろん色気より食い気の方が勝るのですね」
「まあ、嫌だわダンったら!」
朝食は干し肉と野菜のスープにパン、それに果物でした。何と言ってもダンが私のために食事を作ってくれたのです。それだけでご馳走です。私が自分のためだけに作って一人で食べる食事とは大違いです。
それに、私の目の前に愛しいダンが居て、穏やかに微笑んでいます。どんな料理でも数倍美味しく食べられるに違いありません。
「ねえ、ダンはもう食べないの?」
「お嬢様が本当に美味しそうに食べているのを見るだけで俺は満足です」
「私たち、一緒に食事をするのは初めてよ」
「そうですね」
「一緒に朝を迎えたことも……初めてのことばかりだわ」
言いながら私は真っ赤になってしまいました。そういえばダンが自分のことを私ではなく俺と言うのも昨晩初めて聞きました。
「俺もお嬢様の色々な表情やら何やら、初めてのことばかりでしたね」
「ダ、ダンったら……」
ダンは私が益々恥ずかしくなるようなことを口にします。
気付いたら私は朝食をとうに食べ終わっていました。
「……コーヒーのお替わりをお持ちしましょうか」
ダンが席を立ったことで、私たちの間の恥じらいも少し和らぎました。
「ダン、今日は私休みなのよ。貴方今日は何か用事があるの? また里に帰るの?」
「いいえ、今日は一日お嬢様と一緒に居ますよ。貴女がここに越してこられたので、私は普段はペルティエの街で働くことにしました」
ダンは街のある商店で仕事を見つけたと言いました。その店は表向き鍛冶屋兼家具屋なのです。従業員は皆里の出身者で、間者としての依頼も受けているそうです。
「ねえ間者として働くって、実際はどんなことをするのか聞いてもいい?」
「用心棒や浮気調査に迷い猫探しのような件ばかりですよ。最近は割と平和なので」
「依頼が無いときは蹄鉄や刀を作っているの?」
「はい。簡単な家具も作りますよ」
「貴方は手先が器用ではないって言っていたけれど」
「細かい木彫り細工はやはり苦手です」
ダンとのこんな何気ないお喋りでもとても楽しかったのです。それからその日は二人でゆっくりと過ごしました。
食事の準備も後片付けも家事の何もかもを自分たちでしないといけませんでしたが、私はここへ越してきてからというもの、使用人たちの目がないという解放感を満喫していました。
食事をいつ取ろうが、何時に寝ようが自分たちの好きなようにできるのです。まだ日の高いうちからダンと二人で寝室に籠っていても、誰にも知られないし、咎められません。
「ダン、昨晩から貴方の意外な一面が見られたわ」
「意外とは?」
「貴方が結構意地悪だということは知っていたけれど……でも昨晩のダンは今までで一番意地悪だったわ……」
鍛錬の時にも結構厳しいダンです。
「実は貴女の困ったような泣きそうな顔を見ると少々快感を覚えるので、思わずいじめたくなってしまうのです。俺にしか見せないような表情が見たくて……」
「嫌だわダンったら……」
「つい……申し訳ありません」
ダンはニヤニヤしていて全然申し訳なさそうな顔ではありません。
「何よ、それ! それにね……えっと、貴方は女性には興味のないとても淡白な方か、私に対してあまりそういう魅力を感じないのかと思っていたのですけれど……」
「はい? 天真爛漫なお姫様は俺の気も知らないで……そんなわけないでしょう。貴女の魅力に
「そうなの? そんな素振りは全然感じられなかったわ」
「間者ですから、自分の感情は押し殺す訓練は受けています」
「私の想いが全然通じていないのかと、ずっと不安だったわ。私は貴方にとってただの雇い主だとばかり」
「そう割り切れれば良かったのですが」
「ずっと前から私は雇い主のつもりはなかったわ。貴方を男性として見ていて、私の全てを捧げるって決めていたもの、長年の願いが叶って幸せよ」
「はい、それは知っています。お嬢様は昔から『ダン好きスキ大好きオーラ』がダダ漏れですから」
「何よ、それ! でもとにかく……もう私に対しては感情を露わにして、何でも言ってね、ダン」
「お嬢様もですよ」
私たちの新居には家具もろくに揃っていなく、豪華な食材も、美しい絹のドレスも何もありませんでした。けれど私は貴族令嬢だった頃、これほど満ち足りた幸福を感じたことはありませんでした。
***ひとこと***
ダンにはやはり気付かれていましたよねぇ『ダン好きスキ大好きオーラ』!
ダダ漏れだったようですよ!
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