巻ノ二十三 縁あれば千里


 翌朝目が覚めた時には少し気分も晴れていました。空腹でどうにかなってしまいそうです。簡単なスープを作ることにしました。


「朝元気があるうちに何か作っておきましょう。今晩もきっと私はくたくたになって帰ってくることでしょうから……」


 私の独り言が虚しく響きます。




 その日も診療所で私は一日中駆け回っていました。


 再び疲れて帰宅し、朝の残りのスープでお腹を満たしました。


 けれどもう洗い物をする元気などありません。台所も食卓も汚れたお皿や鍋が散らかっています。洗濯物も溜まっているし、掃除もそろそろしないといけません。


「とりあえずお湯を沸かしましょうか……」


 一人でブツブツ言いながら薬缶を火にかけたところ、扉を叩く音がしました。この叩き方は私の愛する男性だとすぐに分かり、扉の所まで駆けつけました。


「ダン! 来てくれたのね!」


 思わずダンに抱きつきたかったのを辛うじてこらえました。


「お嬢様、不用心ですね。すぐに扉を開けず、ちゃんと確かめてからにして下さい」


「貴方だと分かっていたもの。貴方や家族以外の人だったら開けません。あ、今お湯を沸かしているところだったのよ」


 私は厨房に入って火を確かめました。


「ダン、お腹空いている? 実は、ほとんど何も食べるものがないのよ……ごめんなさい」


「そんなことだろうと思って、少々の食糧を持って来ましたよ。食事は済ませて来ましたからご心配なく」


 ダンも私に続いて厨房に入ってきて、食卓の上に大きな袋を置きました。この厨房の悲惨な状態を見られてしまいましたが、彼は何も言いませんでした。


 お湯が沸くのを待って私はお茶を淹れ、二人で居間に座りました。


「診療所に行ったのですね。どうですか、初仕事は?」


「とても忙しいわ。毎晩くたくたよ」


「そうですか。この状態でこの地で続けていけそうですか?」


 彼の固い表情から嫌な予感がしました。


「ダン、それどういう意味? ま、まだ数日だけよ」


「ええ、たかが数日ですね。だというのに既に台所は散らかり放題で何も出来ていないではないですか……料理に失敗して癇癪でも起こしたのですか? ここに越してきてもうこの様子では先が思いやられます」


 涙が出てきそうでした。厳しい顔をしたダンから発せられる言葉は全て本当のことです。


「癇癪なんて起こしていないわよ! た、ただ疲れていて片付けをする気力がなかっただけなのに!」


 ここで声を荒げてはいけないと分かってはいるのです。


「侯爵令嬢として何もかも与えられて育った貴女が、これからその全てを投げ捨てて生きて行くのです。並大抵のことではありませんよね」


「ダン、私に……ソンルグレ家に戻れ、と言いたいの? 貴方は私の全てを受け止めてくれないの? 私、ここで頑張って生活してみると決めたもの。た、たとえ貴方が……もう来て下さらなくても……」


「そこまで申してはおりませんよ、お嬢様」


「診療所の仕事も……ま、まだ見習いで一日中働いてお給金ももらえないのですけれど……でも、もう少し私努力すれば、きっと従業員として認められてきちんと雇ってもらえると思うのよ」


「何をなさっているのですか? いくら試用期間と言ってもただ働きをさせることは法に反しています。いいようにこき使われて利用されているだけではないのですか?」


「え、そんな……」


「先立つものはお金です。お金で幸福は買えませんが、ある程度の快適な生活は買えるのです。実質貧しい生活を続けていると心まで貧しくなってくるものです。私だって意地悪やひがみでこんな厳しいことを言っているのではないのです、マルゴ様」


 ダンの表情が少し和らいで優しい表情になりました。


「分かっています、ダン。でも貴方に見放されても私、ここは離れませんから!」


「全く、貴女というお方はしょうがないですね……私が貴女を見放すなんてことはありませんよ。それにしても頑固なお嬢様だ……」


 彼は今はもう苦笑しています。私は泣きそうでした。


「ダン……」


「貴女の覚悟はもう以前から知っています。ただそうですね、貴女のことが大事ですから、かえって厳しいことを言ってみたくなるのです」


「貴方って結構意地悪なのよね」


 私もやっと笑顔になりました。そして二人の間には少しの沈黙が流れます。


「それよりも貴女の方こそ私の理性を試しているでしょう。こんな夜更けに何の警戒心もなく男を家に招き入れたりして」


「な……そうだとしたらもっと大胆に迫っているわよ。例えば……」


 私はダンの隣に座ってその腕にそっと触れました。そして彼が着ている前合わせの上着の紐に手をかけながら彼の唇に口付けました。


「お、お願いいたします。お嬢様……ちょっと離れて下さい。貴女が心配で様子を見に寄っただけなのです。こんな遅い時間になってしまいましたが……わざと甘い雰囲気にならないよう、努めて自分の理性を保とうとしているのに……」


「別に抑える必要ないわ、ダン……」


 口付けを続けようとする私の体はダンにそっと押し返されてしまいました。何だかいつも私だけが彼に迫っていて、彼は全然その気になっていないようで悔しいのです。


 けれど今晩はダンの視線に熱を感じました、そしてそれが私の視線と絡み合います。


「お嬢様、私たちは誓言を交わし合った仲ではありません」


「豪華な婚礼衣装を着て祭壇の前で誓わなくても私の愛は変わらないわ」


「けれど御父上はマキシム様に『父親としては娘には貴族令嬢らしく式の日を迎えて欲しい』とおっしゃっていました」


「偉そうなことを言っていたわよね、全くうちの父は……貴族同士の姉とマキシムさんとは違うわ、私たちは。だって貴方は貴族のように王都の大聖堂で式を挙げないし、私は間者の里のしきたりに沿った婚姻をしないでしょう? ねえ、マキシムさんは本当に式の夜まで待ったと思う?」


「何をそんなに興味津々なのですか……今更どうでもいいではないですか」


「そうね。姉とマキシムさんは無事結婚したからどうでもいいけれども……もしかして父はドウジュさんにマキシムさんを見張らせていたの?」


「それは俺も知りません」


「本当は知っているのじゃないの? まあいいわ、私たちの話をしているのよね、今は」


 そこで私は再びダンにすり寄りました。今度は彼も私の体を押し返すこともなく、ぎこちないながらも私の背中に手を回してくれました。


「今現在はそれで良いでしょうけれど、後で後悔することになります、きっと」


「将来のことなんて誰にも分からないわ。ダン……貴方は私に一生仕えるって言ってくれたわよね。その気持ちが変わらないのと同じよ」


「お、お嬢様……本当によろしいのですか?」


「もちろん、お願いよ……」


「では貴女のお望みのままに」


 するとそこで私の視界がぐるっと回って彼の顔と天井が目に入ってきました。彼に横抱きにされたのです。


「キャッ」


「お嬢様、俺もう限界です。止められませんからね」


 そして私は彼に抱かれたまま、あっという間に二階の寝室に連れていかれました。




***ひとこと***

おぉお、遂に! お姫様抱っこで寝室へ直行ぅぅ!


ところで我らがマキシム君ですが、結婚式の夜までお預けどころか……もう少し待たされていたような気が……

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