巻ノ十一 命は鴻毛より軽し
私は彼の口からお別れの言葉を言われるのだろうと思っていました。ところが彼は何と私の正面の地面に
「マルゲリット・ソンルグレ侯爵令嬢、私の名前はダンジュです。私を助けて下さった貴女に一生お仕えすることを誓います」
「え? あの……ダンジュというのが貴方の名前なの?」
私も地面に膝をついて座り、彼の手を取りました。
「お嬢様、お立ち下さい!」
「貴方も立ってくれないと嫌よ」
二人手を取り合ったまま立ち上がると彼は私の膝についた土を払ってくれます。
「私のことは何とでも……ダンジュでもダンでもお好きなようにお呼び下さい」
「ではダンと呼びます。やっと貴方の名前が分かったわ……男性らしくて素敵な名前だわ。嬉しい……ダン……」
「貴女にやっと名前を呼んでもらえるようになって私も嬉しいです」
自分の感情を表したり意見を言ったりすることのない彼が珍しいです。
「何度でも呼ぶわ、ダン、ダン……」
(貴方のこと、愛しているわ、ダン……)
彼は私が滅多に見ることのない優しい微笑みで返してくれました。
「ダン、私、貴方のその笑顔が好きだわ」
(本当は笑顔だけでなく貴方の全てが好きよ……)
ダンに伝えたいことは沢山ありましたが、やはり口には出せませんでした。それにドウジュさんとクレハさんの前では恥ずかしかったということもあります。ところが彼らはいつの間にか居なくなっていました。
「さあ、今日の鍛錬を始めましょうか。私が病み上がりだからって油断していたら痛い目に遭いますよ」
「えっ? もしかして前回と同じ内容ですか?」
「もっと回数と難易度を増やしましょうか?」
「い、いえ、同じで結構です……」
そう言えばダンが熱にうなされていた時に私は枕元で『どんな辛い鍛錬でも貴方と一緒だったらもう不平不満なんて言わないから』と囁いていました。
女に二言はありません。その日はいつになくダンにしごかれました。けれど彼に名前を教えてもらったという喜びでその日の厳しい訓練にも何とかついて行けました。
鍛錬に必死な時、私は自覚していませんでした。その夜私は一人になって少しずつ事の重大さに気付きます。私はダンと主従関係を築きたいわけでは決してないのです。けれど彼の名前を呼ぶためにはこの形しかないとは分かっていました。
ダンは一生私の側に居てくれて、私が呼べばいつでも何を置いてでも駆けつけると言いました。私は彼の人生を犠牲にしたくありません。私がダンを助けたと言ってもただ熱にうなされていた彼の側に居ただけなのです。
ダンは本当にこれで良いのでしょうか。彼には沢山質問がありました。
次の鍛錬もダンが一人でつけてくれました。その日の私は色々と気になることが多すぎてあまり稽古に集中出来ません。
ダンには厳しく叱られてしまいました。
「お嬢様、今日はもうこれくらいにしておきましょうか。次回はもっと気を引き締めて臨んでください」
彼はいつものように息一つ切らしていません。私は少し休んで息を整えないとまともに話も出来ないくらいです。
「ダン、お願いがあるのよ」
「お願いではなく、命令ですよ、お嬢様」
「お嬢さまと呼ぶのはやめて下さる?」
「ではお姫様」
「……私のことをお姫さまと呼んでいいのは父と貴方だけよ。でも、本当はマルゴと呼んで欲しいの」
「マルゴ様」
「さまもつけないで」
「そうはいきません」
「私、貴方の意志に反して家来や下男のように扱うつもりはないのよ。そういう意味で貴方を縛り付けたいと思ったこともないの」
「マルゴ様が私をこき使ったり、横柄な態度を取ったり、私に靴の泥を舐めさせたりするとは到底思えませんが」
「もちろんそんなことしないわよ……何ですか、その靴の泥って!」
「ものの例えですよ。さあそろそろ帰宅される時間ですよ。お屋敷の裏口までお送りします」
私はダンのことを男性として見ているのですから、恋愛の対象として……こんな上下関係ではいつまで経っても私の恋は成就しそうにありません……結局彼はそれからも私のことをお嬢さま、お姫さま、あるいはマルゴさまと呼び続けました。
「ねえ、私に一生仕えるっていうことは……四六時中私のこと、見張っているの? 私の着替えや入浴も覗き見ているの、ダン?」
普段は無表情な彼が珍しく真っ赤になっています。
「な、何を、ちゃんとカーテン引いて下さいよ、じゃないと見ますからね!」
こんな彼の表情が見られるようになったことは純粋に嬉しかった私でした。
「ドウジュさんと結婚したクレハさんも父に仕えるようになったのよね」
「ええ、そうです」
「ダン、貴方もいずれ里の女性を
私はきっとダンの奥さまには優しく出来そうにありません。嫉妬してしまうに決まっています。
ダンは私の目をしっかりと見つめて真剣な顔で答えました。
「マルゴ様、私は生涯誰も
その意外な言葉に私ははっと息をのみました。
「そうなの……私も同じよ。誰にも嫁がないって決めているの。両親にもそれははっきりと告げてあるわ……」
私たちはしばらくの間、無言で見つめ合っていました。
父がドウジュさんを教師としてつけてくれたのは私の十六の誕生日まででした。
私は剣術だけでなく、色々な事を教わりました。食べられる木の実や薬用植物の見つけ方、のろしの焚き方、水泳、潜水、私は限られた時間の内に出来るだけ吸収しておきたかったのです。
十六になったら鍛錬は終わり、ドウジュさんも来てくれなくなるのだと思うと毎回の稽古がとても貴重なものに思えてきました。
どんなに天候が悪かろうと私は決して休みませんでした。その一方で学業も頑張りました。私は里の人間ではないので間者にはなれないとドウジュさんに言われました。もしなれたとしても、仕える人が居ないと仕事もありません。
ダンは私に一生仕えると言ってくれました。私は彼を従えるのではなく、彼と共に生きていくにはどうすればいいのか悩むようになっていました。
それでも今は自分に出来ることを精一杯頑張るしかありませんでした。
***ひとこと***
やっとやっと彼でも仮名サスケでもなく、本名が分かりました。第十一話にして遂にです。作者泣かせのダンジュ氏でした。
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