巻ノ五 門前の小僧習わぬ経を読む

― 王国歴 1044年春-1045年春


― サンレオナール王都




 その翌朝学院に行きたくないという私は両親に諭されました。


「マルゴの怪我は学院をお休みするほどのものではないでしょう? 何のために守護戦士さまは身を挺して貴女を救ってくれたと思っているの?」


「はい……分かりました。学院へ行きます、お母さま」


「マルゴ姫の元気がないと彼も悲しむからね」


 そんなことはないと思いました。勝手に彼を追いかけて、勝手に荷馬車の前に飛び出した私のことをすごく怒っているに決まっています。そのせいで彼は怪我を負ってしまいました。


 助けてもらった私が学院を休むのは良くないことは分かります。気が乗らないけれど頑張って行くことにしました。


 そしてしばらくの間、私は塞ぎがちでした。彼がもう来てくれないのでは、という考えが頭を離れません。


 彼はまだ修行中なのだと私は思います。そのうち一人前の間者になったら、一生仕える主人を見つけてその人の側にいるのか、それとも間者の里に戻ってしまうのでしょう。


「もう彼に会えないのかしら……」


 毎日私も学院から帰ってもぼーっと何をする気にもなれない日が続きました。でも私はやはり体を動かしていると気も紛れるのです。再び外に出て庭で木に登ったり、そこから隣の木に飛び移ったり、彼の動きを真似ることにしました。


 高い所から落ちないよう、無理はしませんでした。もう助けてくれる彼は居ないし、家族に心配を掛けたくはありません。




 ある日の午後、私は部屋で宿題をしていました。その時庭に人の気配がします。でもそれは彼ではないとすぐに分かりました。ドウジュさんでした。父に用事なのでしょう。


 ふと、私が彼に手紙を書いたら届けてもらえるかも、と考えました。急いで文をしたためました。


 あの日のお礼とお詫びに、それにもう決して無茶はしない、彼が屋敷に来ても邪魔もしないという約束もしたためました。また会いたい、とはとても書けませんでした。私は庭に向かって叫びました。


「あの、彼に、貴方の息子さんに文を書きました! 渡してもらえますか?」


 返事はもちろんありませんでした。私はバルコニーに、その文を置き文鎮を乗せておきました。寝る前に確認した時にもまだその文はありました。


「私の文も読みたくないの……ドウジュさん、持って行ってくれるだけでも良かったのに……」


 その夜また私は枕を濡らしてしまいました。


(私、もう嫌われてしまったのね……)


 翌朝、恐る恐る窓から覗いてみたら、夜露に濡れてまだそこにあるはずの文は……消えていて、その代わりに一輪のひなぎくが文鎮の隣に置かれていました。そしてその茎には細く折った紙が結び付けてありました。


『私が夜中にバルコニーに来たのに気付きもせずにグースカ寝ているとはまだまだ修行が足りませんよ』


 そう書かれてありました。今度は嬉し涙が溢れてきます……私はこのひなぎくを押し花にして、彼から初めてもらった文と一緒にずっとずっと大事に保管しています。


 それから何年も経って、私が彼にもらった文を大切にとっているのを見られた時は呆れられたものでした。


「そんな汚い字で殴り書きした紙切れなんて後生大事にとっておく必要なんてないでしょう……」


「私が初めて書いた恋文の返事ですもの、宝物よ」


 彼は嬉しそうに少し照れていました。この文とひなぎくは私の一生の宝物なのです。




 私はその後偶然ドウジュさんたちの隠れ家を発見しました。というのも兄が協力してくれたのです。兄は両親が結婚する前にその家に何度か行ったことがあって、その時の記憶がまだおぼろげにあったのです。兄はまだ三つだったそうです。


「マルゴ、お前が庭で時々見る人って、別邸に住んでいるかもしれないよ」


「別邸?」


「僕も小さかったからあまり覚えてはいないのだけどね。大体の場所は分かるから今度連れて行ってやるよ」


「私が突然訪れても多分迷惑だと思うので……場所だけ教えてもらえますか?」


「うん。プラトー地区のリヴァール通りから多分一本北の通りでね、壁が茶色の煉瓦で扉は白い。それから小さい庭があって……周りの家より少し大きい家だよ」


「ありがとうございます、お兄さま」




 ある日、両親と出かけた帰りに馬車から何気なく外を見ていました。そして私は馬車が前を通ったその家を見て確信したのです。ああ、ここに彼が住んでいる、と。


 その時彼は不在だったような、なんとなくそんな気がしました。兄が教えてくれた情報とも合っています。両親の前でしたから、何も気付いていないふりをしましたが、心臓は早鐘のように打っていました。


 何と言っても彼の居場所が分かったのです。


 そして彼は再び屋敷に来るようになっていました。もう私は彼の存在に気付いても笑顔で挨拶をするだけに留めておきました。それでも彼と色々話がしたいという気持ちは日に日に強くなっていきます。




 季節はまた移り、私は十一になりました。その頃になると二階建てくらいの家なら簡単に屋根の上に登れるようになっていました。両親にも誰にももちろん内緒です。


 一人になりたい時など、屋敷の屋根の上で空を眺めたりしていました。時々兄も屋根の上に来るのです。彼は魔法で飛んでくるか、瞬間移動をします。最初にそこで会った時にはかなり驚かれました。


「マルゴ! こんなところで何やっているの?」


「そういうお兄さまこそ」


「僕はいいんだよ! 魔法でどこでも行けるから……」


「私、特に何もしていません。ただ一人で考え事をしていただけですわ。お兄さまはごゆっくり、私は場所を変えます」


 そうして私は壁を伝って下りる前に、しっかり兄に口止めをしておきました。


「誰にも言わないで下さいね、私が屋根や木に登っていること」


「あ、ああ……」


 それでも私の行動は逐一ドウジュさんから父へ報告されているということは知っていました。




***ひとこと***

ドウジュの息子くん、彼女の名前であるひなぎくの花を文に添えるとは中々粋なことをします。


そしてナタニエル君は妹の恋にささやかながら協力してくれています。

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