巻ノ四 虎穴に入らずんば虎子を得ず


― 王国歴 1044年 春


― サンレオナール王都




 その荷馬車にかれる寸前、私に何かが横から突進してきました。そして私の体は道の脇に飛び地面の上をゴロゴロと転がりました。


 硬い路面に勢いよく倒れたはずなのに私は何処も痛くありません。彼が私をかばってくれたのです。私は彼の腕の中にしっかりと抱き締められ、二人で道の端に横たわっていたのです。


「ボケっとしてんじゃねぇ! 気を付けろ!」


 荷馬車は止まりもせず、御者の怒鳴り声と共に去って行きました。私の下敷きになった彼は顔をしかめています。私は慌てました。


「どこか痛めたのですか?」


「いえ、私は……お嬢様は?」


 私はそろそろと立ち上がります。


「いいえ。貴方が助けて下さったから、大丈夫です。まあ、ここ、貴方の肘に血がにじんでいます! 大変!」


 彼もゆっくりと立ち上がりました。痛みを堪えて平然を装っているのが分かります。


「お嬢様こそ、ズボンは破れて、手も擦りむいておられます」


「これは塀を乗り越えた時に……それより貴方は……肘や肩を打ったのではないの?」


「私のご心配は無用です。さあ、お屋敷までお送りしますよ」


「はい……あの、歩くの痛くないですか?」


 彼は何だか足を引きずっているように見えました。


「いえ、平気ですから!」


 そう彼が声を荒げるのも分かります。私が無理して彼を追いかけたせいで……申し訳なくて涙が出そうでした。屋敷の裏口まで送ってもらい、彼がすぐに去ろうとするので引き留めようとしました。


「すぐに擦りむけたところを洗ってもらって下さい」


「あ、貴方の怪我の方がひどいのですから、うちで一緒に手当てをしてもらいましょう」


「そんなことは出来ません、失礼します」


 彼は私に背を向けて、ゆっくりと走り去って行きます。


「ご、ごめんなさい! 助けてくれてありがとう!」


 行かないで、とは言えませんでした。気付いたら涙をボロボロとこぼしていました。


 埃と泥にまみれて泣きじゃくりながら私は裏口の扉から帰宅しました。そんな私を見た使用人はひっくり返りそうでした。そして屋敷中が大騒ぎになりました。


 自分で歩けるのに、執事に抱きかかえられて部屋まで連れて行かれました。そこで一通り怪我の手当てをしてもらった頃に母が慌てて入ってきます。


「マルゴ、何があったのですか?」


「お母さまー、ごめんなさいっ!」


「どこでそんな怪我を?」


「あ、あの子はもっと大怪我を……うぇーん!」


 母の顔を見て再び涙があふれてきて、わんわん泣き出してしまいました。母に優しく抱きしめられて頭を撫でられるともう止まりません。


「うぅ、私が悪いのです……ひっくひっく」


 そこで父も帰宅して、私の部屋に駆け込んできました。


「僕のマルゴ姫が大怪我したって?」


 彼が息を切らせているのを見てまたまた涙が流れます。


「アントワーヌ、大丈夫ですわ。手と膝を少し擦りむいただけです。それに鼻の頭も」


「ああ、可哀そうなマルゴ姫……」


「マルゴ、あの子って言ったわよね。何があったのですか?」


 私はまだ嗚咽しながらですが、一部始終を話しました。


「うっ、うっ……お父さま、お母さま、ごめんなさい。わ、私がかすり傷だけですんだのは彼が助けてくれたからなのです! 彼はもっとひどい怪我をしています!」


「彼って誰のことなのかな?」


「ドウジュさんの息子さんです。名前は教えてもらえませんでした」


「まあ……」


「私が走ってくる荷馬車にかれそうになったのです。そこに彼が飛び出してきて私と一緒に地面に転がりました……顔をしかめていたから、倒れた時すごく痛かったのだと思います……な、なのに私を屋敷まで送ってくれて、手当てもせずにそのまま帰って行きました……私がみんな悪いのです! うわーん!」


「分かったよ、マルゴ。詳しい話はまた後で聞くからね。フロレンス、僕はちょっと様子を見てくるよ」


「いってらっしゃいませ」


 父はすぐに帰ってきました。彼らのお家に行ったのでしょうか。


「マルゴ姫、君の守護戦士殿の怪我も大したことはないから心配いらないよ」


「……そう、ですか……」


「今日はもうゆっくり休みなさい。とにかくその可愛らしい顔に大きな傷がつかなくて良かった。それに怪我も軽くて……」


 父のその何気ない言葉は、気持ちが落ち込んでいる私の醜い感情を引き出すのに十分でした。


「お父さまはいつもそう! 私が顔に大怪我をして可愛くなくなったら、もうお父さまの可憐なマルゴ姫ではなくなってしまうのですね! うわーん! 私は見た目だけなのですね!」


 私もこんなことが言いたいのではなかったのです。でも流れ出た激情は止められませんでした。当然のことながら父は悲しそうな顔をしました。


「ああ、僕のお姫様、もう泣かないで。お願いだから。蝶よ花よと可愛がられるだけでは駄目なのか、流石マルゴ姫もやはり僕達の子供だね。僕がいつも可愛い可愛いと言うのは君の外見だけではなくて、ちょっとした仕草や他の人に対する優しさなどの内面も全て含めてなのだよ。でも、もう君がそう言われたくないのなら口にしない。とにかく何があっても、いつまでもマルゴは僕たちの大事な大事な娘なのだから」


 父はそう言って私を軽く抱きしめてくれました。益々私の涙はあふれてきて止まりませんでした。


 私はその晩、彼のことが気になってろくに眠れませんでした。翌朝目が覚めた時も気分は最悪でした。




 ずっと後になって教えてもらったのですが、彼は脂汗を掻きながら帰宅したそうです。骨折はしていなかったものの、肩を脱臼していたとのことでした。父は私がこれ以上気に病むのを見ていられず、本当のことを教えてくれなかったのです。




***ひとこと***

ドウジュ二世くん、マルゲリットの弟子入りは断ったものの?彼女のピンチにはちゃんと現れてくれました!


親バカアントワーヌ君はこんなお転婆な娘を持って気が気ではありません!

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