巻ノ三 頭隠して尻隠さず
― 王国歴 1042年夏-1044年春
― サンレオナール王都
私が屋敷の庭で遊んでいる時には当然ながら間者の彼らは警戒してか、私の近くには来ませんし、そもそも敷地内にも入ってきません。彼らが庭や屋根の上に来るのは主に私が屋内に居る時でした。
ある日私が部屋で宿題をしていると窓の外で人の気配がしました。家出常習犯の兄をドウジュさんが見張っていることが良くありました。私の部屋の隣は兄の部屋ですからすぐ分かるのです。
どうやら今日は違いました。ドウジュさんでもクレハさんでもなく、あの男の子のようでした。
私はどうしようか少し迷いました。いつも私が窓に近付くと彼には逃げられてしまうのです。ですから慎重にしないといけません。彼は気配を消しているのでしょうが、私には分かります。
彼が窓から顔を覗かせてこちらを見ています。今までドウジュさんも皆、後姿くらいしか私は見たことがありません。彼の顔が一度どうしても見たくてとうとう誘惑に勝てませんでした。
私は窓の方を向き彼に微笑みかけました。彼の驚いた顔と言ったらありません。そして彼はすぐに庭に飛び降りたのか、居なくなってしまいました。
私は私で、彼のその黒い瞳に驚きました。私は今までそんな濃い色の瞳の人は見たことがありませんでした。彼の短い髪の毛も黒く、肌の色は日に焼けた健康的な小麦色でした。
その後しばらくして彼の顔をまじまじと見る機会があった時に確かめたら黒だと思っていた瞳は濃い茶色でした。
「ああ、やっぱり行ってしまったわ……でも顔が見られて良かった。今度はお話できないからしら?」
彼の姿はその後も屋敷の庭で見かけていましたが、女の子の方は見なくなりました。彼女は彼の妹さんなのでしょう。彼女はもう間者の修業は止めてしまったのでしょうか。
私は彼が来ている時はすぐ分かるようになり、最近は目も合うようになっていました。私がこんにちは、と話しかけるといつもすぐに消えてしまいます。そこで私は思い立ちました。
「私が駆けっこがもっと速くなったら逃げられてもついて行けるわね……」
そこで私は秘密の特訓を始めることにしました。学院から帰って宿題を済ませると動きやすい服に着替えます。主に兄のお古のシャツやズボンです。そして私は庭で走ったり木登りをしたりしていました。
秘密、と言ってもドウジュさんたちには私が何をしているかはお見通しでした。ドウジュさんは息子である彼に、特に私には気を付けるようにと言っていたそうなのです。修行中の彼は私に気配を
私に見つからないようにソンルグレの屋敷に忍び込むのが彼の修行の一環だったそうでした。
学院から帰ると着替えて庭で木登りなどの練習をするのが私の日課になりました。
ドウジュさんたちは王都のどこかに住んでいるようでした。兄のナタニエルがその頃まで度々家出していたからか、ドウジュさんとクレハさんは良く屋敷に来ていました。
まだ子供の彼は父のために働いているわけではなかったので、私があまり見かけないのも
私は雨の日も風の日も庭で一人鍛錬をしながら待ち続けました。ある日私は庭に人の気配を感じました。彼は一人でした。私は細心の注意を払いながらそうっと彼に見つからないように、彼が座っている大木に近付きます。
高い所の枝に座っている彼に声を掛けます。濃い緑の服を着ているので木の葉や枝に紛れて見えにくいのです。
「あの、こんにちは!」
「えっ? ギャッ!」
彼の驚きようはちょっと見ものでした。思わずバランスを崩して落ちそうになるのを両腕で枝にぶら下がり、再び元の位置に座り直しました。
「あなたお名前は何ですか? 私はマルゲリットです」
「そ、それは……」
父によると里の人々は自分が仕える人以外に名前を教えたらいけないのでした。
「えっと、私に名前が言えないのだったら、今度会う時までに私が貴方をどう呼ぶか決めていいですか?」
「はい? いえ、そういう問題ではなくて……とにかく、俺はこれで失礼します」
そして彼は木の枝を伝って隣の木に移り、そこから地面に飛び降りて屋敷の裏側へ駆けていきます。私は彼を追いかけました。もちろん彼の方が速いですが、私も一生懸命に走りました。
彼は使用人が使う裏口は使わず、屋敷の塀を軽々とよじ登って向こう側に飛び降りました。私も頑張って塀を登り、去って行く彼の背中に向かって叫びました。
「ねえ、待って! 私を貴方の弟子にして下さい!」
「いえ、そんなの無理ですから!」
飛び降りるのは自信がなく、少し怖かったのでズルズルと塀を伝って下りました。服は汚れ、ズボンは少し破れて手の皮もすりむいてしまいましたが、それを気にしている余裕はありません。
彼が向かった大通りの方へ急ぎます。人通りはそんなに多くなかったのですが、彼の姿はもうどこにも見えなくなっていました。それでも辺りを見回すと、彼を見つけました。はす向かいの建物の陰から顔を覗かせていました。そしてすぐに駆けて行ってしまいました。
彼の方がずっと足が速いのでもう追いつけないと思いました。それでも大通りを渡り、その横道を私も進みました。一つ目の角に来た時にはもうどっちに行けばいいのか分からなくなっていました。
その時でした。角の真ん中に突っ立っていた私は、結構な速さで走ってくる荷馬車が迫ってくるのに気付きました。咄嗟に避けようと思ったら、足がもつれて転びそうになりました。
「危ない!」
「きゃっ!」
***ひとこと***
ドウジュの息子さんですが、名前が分からないのでしょうがなく彼、彼と連呼するしかありません……
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