14. 兄弟

「ジャン、大丈夫?ずいぶん痩せたみたいだけど」


 まぶたの裏で、彼は語る。


「なんだか、僕みたいだね」


 優美に笑う、弟。

 確かにこの手で殺めた、愛しく、妬ましく、輝いていた存在。


「……どうしたの?ジャン。疲れた顔をして」


 壁にもたれた「ジャン」の頬に、蒼白い手が触れる。


「ジャン、残念だよ。……まさか、君が死んでしまうなんて」


 違う。死んだのは、殺されたのは、ジョゼフだ。

 ジャンはそれに成り代わり、目的を果たそうとした卑劣な青年だ。……そのはずだ、と、自分に言い聞かせる。


「君は僕よりずっと真面目で、ずっと他人のことを思いやれる人だった」


 亡霊が耳元で囁く。


「ごめんね、気づけなくて。……だから、安心して。君の憂いは僕が受け持つよ」


 甘美な、生暖かい響きで、


「君の意志は僕が引き継いであげる。安心して、用済みになりなよ」


 彼は、そんな人物だっただろうか。

 もう分からない。思い描けない。

 ……そもそも、自分はどんな人間だっただろうか……?


「……おい、何居眠りしてやがんだ」

「うわぁっ!?」


 頭を叩かれ、はね起きる。

 大袈裟だな……と、目を丸くする赤毛の友人。

 出会って2年ほど経つが、ジョゼフはまだ本名を知らない。


「うなされてたぜ、嫌な夢でも見たか?」

「…………うん、最悪な夢をね」


 にこりと笑って立ち上がる。

 未だ背筋にまとわりつく、罪の記憶。


「……なぁ、お前」


 ふと、金色が煌めいた。


「エドガーっておっさん知ってる?」

「…………父様が、どうしたの?」


 じっとりと、「ジャン」の背中に嫌な汗がまとわりつく。


 ──ジョゼフ、あの日から様子がおかしいのは分かっているんだ。……私とて、酷いことを言ったと思っている。済まなかったね。


 酷いのは、惨いのは、息子の見分けすらつかないところだ……と、叫びだしそうになるのを堪えたあの日。

「父親」の今際を看取った日が、きりきりと「ジョゼフ」の頭を締め付けてくる。


「いや、昔馴染みがエドガー・アンドレアって貴族に拾われたっぽくてよ。金か何かたかろうと思ってわざわざこっちまで来たってのに門前払いされちまって。……つっても、何年も前の話だが」


 その、昔馴染みは、まさか、

 愕然と見開かれた、灰褐色の瞳を思い出す。

 伸ばした手が空を切り、崖の底へと消えていった黄昏刻。


 もう後戻りはできないのだと、己に言い聞かせた忌まわしい過去が蘇っていく。


「父様は、去年亡くなったよ」

「へぇ。そりゃまた何で……」

「……養子になった子が思ったよりしっかりした子でね。これなら……と妹の婚約者に決めた途端、気が抜けたのかな。そのまま体を壊したんだ」


 一刻も早く逃げたかったんだろう、と、恨み言のように言葉が零れる。


「……へぇ。貴族の婚約者ねぇ。目当ては産まれるガキか?」

「元から手頃な中継ぎに決まっているよ。よっぽど僕のことが気に食わなかったらしい」

「それだよ、それ」


 金の瞳が狙うのは、金目のもの。

 彼にとって糧と引き換えになるものは、形のあるものでは無い。


「なんで?お前、実子なんだろ?」


 貪欲な、猛禽類の目がを漁る。


「…………僕は、」


 立ちすくんだまま、「ジョゼフ」の視界が霞み、目の前の赤髪が揺らいでいく。




 ──ジャン、お兄様には会ってあげないの?

 ──あいつに迷惑だ。貴族として生きていけた方が楽に決まってる

 ──ふぅん。僕がわざわざ抜けて来たのに、そういうこと言うんだ

 ──ッ!?お、おい、驚かせるな!!

 ──そんなに驚くなんてね!俳優なら、僕の方が向いているかもしれないよ?


 僕は、俺は、……僕、は


 ──話したかったんじゃないの?ジャン

 ──へぇ、そうなのかい?

 ──何をニヤニヤと笑ってるんだ……!

 ──楽しそうだね、劇って

 ──……なら、いつかお前も見に来い

 ──……退屈そうだな……

 ──おい……!


 ぼくは、どっちだ?

 おれは、俺はジャンだ。


 ──ラルフとうまくやってるらしいな。今度、劇でも見に来たらどうだ?会場なら案内する

 ──劇かぁ……。うん、初めて懐かれたしね。たまには兄らしいことしようかな


 うらやましい

 ねたましい

 くやしい

 ……だが、俺には責任がある。


 ──ジャン、聞いて!

 ──コルネーユか。血相を変えてどうした?

 ──エドガーがあんたを殺すつもりらしい……!

 ──……何だって?

 ──……どうしたらいいの……?あんたが、そんな……そんなのってない……!


 どうして

 俺が殺されなければいけない。

 うらめしい

 俺にはやるべきことがあるのに。

 にくらしい

 この場所だけは、守らないと。

 くやしい

 俺は、座長だ。このまま死ねない。

 ねたましい

 ……あいつは、そんなことすら考えなくて済むのか。

 うらやましい


 ──悪い。今日の公演は中止になった。……主演が食事を抜き過ぎて、役に合わなくなったんだ

 ──えっ、そうなのかい?なら、ラルフにも……

 ──……それなら、さっき俺が伝えた

 ──ふぅん……。ところでジャン、なんだか痩せた?


 あいつは、今ものうのうと楽をしている。

 俺の屍の上でも、きっとヘラヘラと笑える。


 やるしかない

 生きるために

 やるしかない

 劇団のために

 やるしかない

 殺したくない

 やるしかない

 殺すしかない

 やるしかない

 殺さなければ

 やるしかない

 逃げられない

 やるしかない

 それしかない

 やるしかない

 だから、俺は、


 ──ソフィ、ジョゼフを呼んでこい。……あいつのことだから、勝手に来るだろうけどな

 ──……ッ、まさか……!


 僕は、

 もう、そうするしかなかった。


 ──ジャン、どういうつもりだよ!ラルフに怪我なんかさせ……て…………?


 なんで、どうして、ひどい


 ひどいよ、にいさん


 ──待って!落ち着いてお兄さ……ま?…………お兄様……

 ──ジャン……ほんと、君って……


 ずるいなぁ




「おい、どうした?」


 肩を掴まれ、翠の視線が現実に返ってくる。


「……ひでぇ顔色だな」


 ばつが悪そうに、目の前の友人は頭をかく。


「……ま、跡継ぎだのなんだのの騒ぎは貴族にゃよくある話だ。そんなに嫌ってんなら聞かねぇよ」


 観念したように、傷だらけ、豆だらけの指が引っ込んだ。


「……君は、人を殺したことがある?」

「あ?……あるよ、そんくらい」


 蒼白な面持ちで、青年は語る。

 笑顔の仮面にぼんやりと浮かぶ、翠色。


「初めて殺した時って、眠れなくなったりした?」


 縋るように、救いを求めるように、翠の瞳が見開かれていく。


「……ああ、まあ……その通りだ」


 金の瞳が、逃れるよう揺らぎ、さまよう。


「…………なぁんだ。はったりか」


 ギクリ、と賊の肩が跳ねる。

 唾を嚥下した喉から、繕うように溢れる言の葉。


「ティグなら殺れるぜ。アイツはそこんとこなんも分かっちゃいねぇ。首を折って終いだ」

「君が手を下したことは?」

「……っ、しつけぇな。ねぇよ。……ねぇけど、結局同じだろ。見殺しだろうが殺しは殺しだっつの」


 気圧され、後ずさる。

 のらりくらりと生きてきた詐欺師には初めてのことだった。

 ふっ、と、乾いた嘲笑が、秘められた安堵が、張り付けた笑顔を崩した。


「……ああ、きっと、お前には殺せない」


 そこで青年……ジャンの糸は切れた。ぐらりと倒れ込む体を、ミゲルが咄嗟に受け止める。


「っとぉ!?……ね、寝てやがる……」


 ミゲルは知らない。

 腕の中で穏やかに、深い寝息を立てる姿が、久方ぶりのものだったことを。




 ***




 鉢植えで咲き誇る赤色を慈しむ視線が、やがて、伏せられる。


「ルディ、もう……帰ってこないのか」


 あれからラルフが幾度薔薇を咲かせても、ルディが帰ってくることはなかった。


「……弱音なんか吐いてられないな」


 ラルフが伯爵家の末弟、ルイ=フランソワの補佐役として任命されたのは、エドガーの役割を引き継いでのことだった。

 もっとも、ルイは伯爵家の人間とはいえ真っ当な知識すら与えられていない傀儡。補佐とは名ばかりの、使用人にも等しい扱いだ。

 世間知らずな御曹司の子守など、爵位にしては随分と格の落ちた役回りとも言えるが、とうの昔に偽物子爵と呼ばれている以上仕方はない。

 エドガーの祖父が革命のどさくさに紛れて纏っためっきは、ラルフのことがなくとも既に中身を露呈していた。


 エドガーが苦し紛れにでっち上げた、どこぞの落とし胤をソフィの婚約者に迎えた……というエピソードも、信じられているかどうか……。


 あまりにも効率の悪い采配。ジョゼフの言う通り、エドガーのつまらない意地が招いたとしか思えなかった。

 そのせいか、ジョゼフが放蕩のために跡を継げなくなった……と、そんな噂もまことしやかに流れている。


「……兄……か……」


 ふと、ラルフは立て続けに亡くなったルイの親族を思う。

 領主となり日も浅いまま、最後に残った兄も心労の末に倒れた。

 もはや革命家の運動は、容易く領主の息の根を止めるのだ。


「どうして……誰も先のことを考えないんだ……」


 北の島国では、めざましい勢いで技術が発展していると聞く。

 あのままイングランドにいれば……という義父の台詞が脳裏に浮かび、ちりりと右眼に痛みが走った。


 昨年、エドガーの葬儀で久方ぶりに出会った「ジョゼフ」は……予想通り、ジョゼフではなく……。


「…………ルイ様、起きて来ないな。……また俺が起こすのかな……そうだよな……」


 溜息混じりに、ラルフは新たな領主となる上司を起こしに向かった。




「私はいずれ領主となるかもしれん。そう思えば、この役目もそう悪くはあるまい」


 館を訪れた時、長身の彼はラルフを見下ろして堂々と語った。

 威厳に満ちた気位の高さに感銘を受けたものの、その評価はすぐに撤回することになる。


「ねぇ、君。エドガーがドイツで拾った子なんだって?僕に教えてくれない?君がいた国のこと」


 私室でのその変わりようを、簡単に忘れられるわけもない。


「あ、そうそう、先言っとく。どれだけ偉くなっても領主様とか、伯爵とか堅苦しい呼び方はやだ。ルイって呼んで」


 ……だからこそ、物語のプロローグには、その場面がある。


「……承知しました。……えー……ルイ様……?」

「……うん。よろしくね、ラルフ」


 数年がかりで作法や礼儀を身につけたのはいったい誰だ……?と、ラルフは自分自身に睨まれた気がした。

 だが、気に入られなくてはならなかったのだ。

 時代を憂いたラルフが、民草を救うためにはそうするほかなかった。……そのために、前領主の暗殺計画も知りつつ見過ごしたのだから。


 ルイ=フランソワ・フィリップ。伯爵家の末弟として生まれるが、相次ぐ肉親の死により伯爵領最後の領主となる。

『咲いた花、そして空の鳥へ捧ぐ物語』の登場人物、ハーリス・フェニメリルのモデルであり、物語の発案者でもある。




「……ルイ様は今、格好の手駒になっている。……彼を守り抜いて……。……俺は、少しでも実権を得る」


 部屋を立ち去るラルフの背後。

 薔薇を目印にしたかのように、1羽のツバメが窓に降り立った。

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