15. 籠の鳥

「あの、ルイ様……そろそろ出てきませんか?」


 ラルフがいくらノックしようが、ルイからの返事はなかった。

 兄の死を悼んでいるのか、それとも、重責を背負いたくないのか……。


「……失礼します」


 気の進まないまま、扉を開く。

 背丈はラルフよりも高いが、ルイの中身は幼子のままだ。

 世の仕組みからは遠ざけられ、下手な知恵を見せれば殺される立場で、まともに成長できるわけもない。

 ……今も、自分の感情の処理だけで精一杯なのだろう。


「ルイ様、おはようございます」


 ルイは、既に起き上がっていた。

 ぼんやりと窓の外を見つめていた碧眼が、ラルフを映す。


「……ねぇ、ラルフ。エドガーは、どんなふうに死んだの?」


 漏れだした言葉には、なんの色もなかった。

 透き通るように現実味のない青さが、灰色の視線と交錯する。


「……父様は、満足そうに死にました。もう、お疲れだったのでしょう」

「そっか。……酷いなぁ」


 それはこちらも同じ気持ちだ、と、ラルフは拳を握りしめて、


「置いて逝くなんて、許してないのに」


 どきりと、鼓動が反転したような気がした。


「僕ね、何も教えてもらえなかった。教えてもらえなかったのに、みんなそれすらバカにして、まともに接してもくれなかった」


 色の白い指が、机の上の本を指し示す。


「……それ、エドガーと買いに行ったんだ」


 なんの啓蒙も、なんの宗教も、それらの中には含まれていない。

 ただの、つくり話物語の類。


「父様が……?」


 ジョゼフを疎み、評判に怯え、見栄を張った愚かな姿を思う。


「エドガーしか、僕のためになんか笑ってくれなかったんだよ」


 ──私のことは、遠慮なく父と呼んでくれていい


 脳裏に蘇る、親子となった日の言葉。

 そこに見栄や驕りはあれど、嘲笑や侮蔑などは含まれていなかった。


「僕と接するのは楽だって、言ってた。育てる責任を負わなくていいから……って」


 どれほど稚拙なごっこ遊びだったとしても、


「僕なら、余計な私情を挟まなくて済む……って」


 どれほど愚かな自己満足であったとしても、

 確かに、ルイは救われたのだ。


「……どうせ僕は、道具なんでしょ」


 言葉が返せない。


「伯爵なんかになったって、飾りみたいに偉そうにしてたらいいだけ。僕には何も期待してない……そうでしょ」


 否定もできない。

 青く澄んだ瞳が、ふいっと逸らされた。


「好きに使えばいいよ。……君、つまんないやつだと思うけど、別に嫌いじゃないし」


 滅相もない。道具などではない……と、見え透いた嘘をつく気にはなれなかった。その方が、不誠実にも思えた。


「ルイ様、あなたに重荷を背負わせる気は毛頭ありません。……ですが、私に従えとも言いません」


 銀灰色が煌めく。


「私ができる限りのことはします。あなたに多くは求めません。……それは、あなたが背負うことではない」


 それが冷酷なことであろうとも、ラルフの腹は決まっていた。


「ごっこ遊びのつもりでよろしいとでも、お考えください」


 凍てついた瞳が映す金髪と碧眼は、お伽噺のように輝いている。

 澄んだ瞳が映す黒髪と隻眼は、痛みを背負ってそこに在る。


「……兄さんみたいな顔してる。早死しそう」

「長生きしたいわけではありませんから」

「じゃあ僕、君のこと絶対好きにならないけどいい?」

「好かれようとも思いません」

「後から寂しいとか、悔しいとか思っても、絶対好きにならないよ?」

「……あなたに好かれなくとも、仕事はできます。ルイ様こそ好きになされば良いかと」

「ラルフ嫌い」

「なら、私が死んでも泣かなくて済みますね」


 いつの間にか溢れていた涙を指で拭い、ルイはまた一言、「嫌い」と呟いた。




 ***




「あら、おかえり


 黒髪の女の言葉に、「ジョゼフ」は眉をひそめた。

 まだふらつく足取りをどうにか隠し、姿見の前に立つ。


「僕は団長じゃないよ。代理でしかない」

「そうかねぇ。あの舞台は、あんたでなきゃれないよ。みんな分かってんのさ、ジャン」


 長い黒髪にブラシを入れ、唇に紅を差す。


「あたしはあんたの舞台以外で、主役になる気はない」


 深い紺色の瞳には、確かな決意が宿っている。

 舞台女優コルネーユ。後にパリ全土に名を轟かせる、「悲劇の女」。


「……なんと言おうと、あんたはジャンだ。あたしの唯一無二の親友さ」


 革命派、ストーリーによっては反革命派に惨殺されるジョゼフ・アンドレア。その愛人として、数多くの悲劇がまことしやかに語られている。


「……コルネーユ、衣装の補修は終わったのか?」

「それならアルマンがやってくれた。……さぁ、胸を張って舞台に上がりな。お姫様も、それを望んでる」


 衣装に袖を通して舞台に向かう「ジャン」を見送り、コルネーユも支度を続ける。


「……何がお姫様よ。もう」


 物陰に隠れた金髪からは、赤い耳が覗いていた。


「あんたらがお互いに想いあってる……なんてのは、見てたらわかる」


 ケラケラと笑いながら、コルネーユは髪をまとめる。


「舞台の上じゃ寝取ってる気分になるもんでね。焦れったいったらありゃしないよ」


 スッと、女優は艶やかに、それでいて儚い微笑みを宿す。


「……見ててね、ソフィ。貴女の書くヒロインは完璧よ」


 彼女の歩んだ人生は、壮絶であれど悲劇ではなかった……と、後に劇作家アルマンソフィは書き残している。


「いいえ。貴女が完璧に演じてくれるからよ、コルネーユ」


 まあ、嫉妬しないわけじゃないけど……と、小声で漏らした本音には投げキッスで返し、女優は舞台に上がる。白いドレスを見にまとい、控えめに笑う乙女を演じるために。


「……赤いドレスも着せてみたいんだけど……観客のイメージは白い服か喪服なのよね……」


 兄を殺した想い人。その想い人と恋物語を演じる友。その姿に胸がちりりと痛むが、2人の演技の前には酔いしれるほかない。

 ここは、報われない現実を忘れ、夢中になれる場所なのだから。

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