9. 散った花弁
何が起こったのか、彼にもよくわからなかった。
全身が痛む。傷の具合すら推し量れず、ラルフはただ、呆然と夕闇に染まりゆく空を見上げていた。
ジョゼフがラルフを芝居に誘ったのが早朝。ラルフは当然、二つ返事で承諾した。ジョゼフを勘繰っていた頃の疑心など、とっくに消え去っていた。
待ち合わせ場所に向かったのは夕刻。寒空の下刻一刻と時は過ぎ去り、亜麻色の髪が姿を見せた頃には太陽が随分と傾いていた。
突き落とされた。
簡単に言えばそれだけのことだ。背後から突然押され、浮いた視界に入ったのがジョゼフの姿だった。
崖の下、灰褐色の瞳から零れた雫が月に煌めく。……見覚えがある。あの日も、こんな月が出ていた。
昨日まで、ジョゼフは確かに優しかった。だが、事実ラルフは死に瀕している。……自分を謀ったということなのか、それとも、止むを得ない事情があったのか。
何にせよ、冷たい地面で転がっている現実に変わりはない。
「……ルディ……」
乾いた口から、懇願のように助けを呼ぶ声が漏れる。
右眼が熱い。おそらく枝で傷つけたのだろう。おずおずと手を伸ばすと、手のひらが真っ赤に染まった。
『……ラルフ様……お気を確かに……!!』
ルディには何もできない。肉体がないのだから、まともに助けを呼ぶことすら不可能だ。
「なんで、兄さん……信じたのに……」
『しっかりしてください!ラルフ様!!』
「……こんな時代だもんな……そうだよな……」
弱り切った声が、ラルフの灯火を吹き消していく。
『今、ソフィを呼んできます!』
「ここに……いて……」
ソフィなら、自分の声が届く……と、ようやく思い至ったルディを引き止め、頭上の声を慰みにする。
気ばかりが急いているのか、動転しきった嗚咽を子守唄にして、ラルフは静かに目を閉じた。
……もう、何も、考えたくなかった。
懐かしい声を思い出す。
「ミゲル……」
彼は、元気にしているだろうか。
……遠き日の友人の安息を願い、ラルフは深い眠りについた。
「ソフィ、ラルフを知らないかい?」
広い屋敷の中を宛もなく歩き回り、ジョゼフは困り果てたように妹に尋ねた。
「あら、ラルフお兄様なら出かけたわよ」
「……行き違いかな。劇を見に行く約束だったんだけど、中止になったって聞いた。何でも、主演が食事を抜き過ぎたとかなんとか……。ラルフも知ってるものかと……」
参ったな、とぼやきながら、ジョゼフは暗くなった窓の外を見る。月明かりが窓から廊下を照らしているが、この時間に出歩くのは危険すぎる。
「……中止になったの?ジャン、大丈夫かしら……。でも、それならラルフお兄様も帰ってきているはずよ?」
「……どうして帰ってきてないんだろう」
2人して、ただならぬ予感を覚え始めていた。
……その静寂を破ったのは、父の声。
「ジョゼフ!ソフィ!ラルフが怪我をした!」
その怒号に不安な揺らぎはなく、かと言って根を張った落ち着きもなく──
例えるならば、「時が来た」と、告げていた。
──ラルフ様、少し、昔の話をしましょう。私が、聖女と呼ばれていた頃の話です。
凛と響く、低く落ち着いた声音
──私は聖女ではありましたが、その実は魔女でした。これは、罪を着せられたという話ではありません。……私を理想とするために、村人は罪もない者を殺めました。
冷たく落ち着いた、それでいて確かな情熱を秘めた声色
──最後に火あぶりとなったのは、私のかけがえのない友人でした。
涙を流すように、銀の毛先が頬に触れる
──ラルフ様、私は再び得た友を失いたくはない。
赤い花弁が、ひらりと舞う
──私はとうに命を失くした存在……。されど、魂を救われました。だからこそ、私は告げる。神の啓示でも、魔女の甘言でもなく……友として。
灯火が、揺らぐ
──この先待ち受ける試練がどのようなものであろうと、貴方の真実を貫いて欲しい。……いつか、それは誰かを救う。貴方の魂すら例外ではない。
私は、名も忘れた鳥を救えたのだから
その言葉を、彼がみなまで聞くことはなかった。
……聞くことができなかった。
ひどく喉が渇いて、頭が痛い。
目を開いても、視界にはぼんやりと霞がかかっている。
「ラルフ!」
枕元に、彼はいた。
「大丈夫かい、ラルフ」
こちらの顔を覗きこんで、そう語る。……騙る。
薔薇は散っていた。あの夢に出てきた少女が、ルディだとするなら……
やるせない思いがふつふつと胸に湧き上がる。
「ラルフ?どうしたの?」
ジョゼフは心配そうにこちらを見ている。
……白々しい、と、腹の中にどす黒い怒りが溜まっていく。
「芝居を見に行くと、嘘をついたんですか」
その声色は、凍てついていた。
「貴方が、俺を突き落としたんでしょう」
翠の目を見開いて、ジョゼフは絶句していた。
この期に及んで芝居を……と、叫ぶ前に、焼け付くように右眼が痛む。
「……ッ、ルディ……」
何も報いることができなかった。何度も救われたのに、彼女に何もしてやれなかった。そもそも、性別すらも、いや、彼女本人のことは何ひとつ理解していなかった。
何も聞いてやれなかった。本当は、もっと話したいことがあったかもしれないのに。
強い悔恨が、ラルフの胸を締め付ける。
「……ラルフ……?なんの冗談……」
「そうか。やはりお前か、ジョゼフ」
扉を開けた男の言葉には、喜びが隠しきれていなかった。
エドガーはちらとラルフの方を見るが、痛々しい傷からふいと目を逸らす。
「……なんで……」
「それほど跡を継ぎたかったんだろう。……君に何もしなければ、跡継ぎは彼だったはずなのに」
白々しい嘘をつくさまは、彼らに血の繋がりがないことすらも疑わせた。……いや、ジョゼフの方がいつも狡猾に嘘をつく。
エドガーの嘘は、あまりにも分かりやすすぎた。
額には、冷や汗が伝っている。
「……違う、僕じゃない……」
「なら、誰がいるって言うんだ!亜麻色の髪を確かに見たのに!」
ジョゼフは怯えたように後ずさりながら、憤怒に燃えるラルフの形相を見つめていた。
「兄さん、どうして……!どうして俺を……!」
「ジョゼフ、往生際が悪い。お前がやったんだろう」
「……ちくしょう……!」
唇を噛み締め、ジョゼフは部屋を飛び出した。
……まるで、心当たりがあるかのように一目散に駆けていく。
「……ソフィ!ジャンはどこだ!」
玄関で、ソフィは真っ青になって立ち尽くしていた。ジョゼフの姿を視界に捉え、咄嗟に引き留めようと腕を掴む。
青ざめた唇から、「だめ」と、震える声が絞り出された。
「何か知ってるんだな!?答えろソフィ!!」
「…………お兄様、お願い。落ち着いて」
肩を掴まれても、どこか自失したまま視線を下に向けている。
それが、明白な答えだった。
「やっぱりそうか……!」
「ダメ、ダメよ!!
その警告も聞かず、ジョゼフは往来を走っていく。息を切らしながら、魔物に手を引かれるように酒場の方向へと一目散に駆ける。
ソフィもその後を追った。靴を脱ぎ捨て、足が汚れることすら厭わずに。
嫌な予感がした。ラルフ自身、選択を誤った気がしてならなかった。
確かに亜麻色の髪を見た。
だがラルフはもう一人、亜麻色の髪の男を知っている。
時刻は既に薄暗かった。……見間違えてもおかしくはない。
「……ッ」
右眼が痛い。だが、追わなければ。追わなければきっと、取り返しのつかないことになる。
ジョゼフが無実だとするなら、それこそ……ラルフが糾弾したこと自体、過ちなのだ。
ベッドから転がり落ちる。痛みは激しく脳髄を蝕む。
もがけばもがくほど、その手は空を切る。エドガーが医者を呼ぶ声がする。ラルフの意識は急速に遠のいていった。
「お兄様……」
入り組んだ路地裏、ソフィはただ、呆然と立ち尽くしていた。
「…………ソフィ、済まないな。
貴族のような笑みを浮かべたのは、「劇団アーネのジャン」だった。
ジョゼフの胸にくい込んだナイフが、ずるりと引き抜かれる。
瞳を見開いたまま、ジョゼフは既に絶命していた。
「どうして、どうしてよジャン……!なんで貴方が……!」
「生きるためだ。最近、貴族の立場は悪いらしい。エドガーは俺を殺し、妻、ひいてはわが子の噂を闇に葬ろうと……。俺がいなくなれば、この劇団はどうなる?……だから、仕方なかった」
失墜した威光。足元に絡みつく恐怖。
次期団長の責務。貴族の加護を失った劇団。閉ざされゆく未来。
あらゆる立場が、やがてジャンを追い詰めた。
「だから、僕は、ジョゼフを演じることにしたんだ」
青年は、貴族然とした仕草で微笑む。翠の瞳は、熱に浮かされていた。
もう後戻りなどできないと、その瞳が何よりも雄弁に語る。
「……お兄様……ジャン……」
「ジャンが僕……ジョゼフに罪を被せようとした……と言えば、父様はきっと、何も言わない。僕の方から縁を切られないように、跡継ぎとなることさえ辞退すればすべて穏便に済む。上手くいけば、劇団に支援させることだって……!……悪いね、ジャン……」
足元の死体をジャンと呼び、彼はジョゼフとして優美に笑った。
「頼む、ソフィ。……そもそも俺だって長男のはずだろうが。こっちには団長としての責任がある。……ここまで来て後戻りができるものか……!」
そしてジャンの口調で、ソフィに詰め寄る。
「…………そんなの」
許せるわけがない……と、声にはならなかった。
兄の死を嘆くべきなのに、この男が兄を殺したと非難すべきなのに、ソフィは声を上げることができなかった。
声を上げたところで、どちらもが命を落とすことにしかならない。
……もう、兄の命は奪われてしまったのだから。
「ラルフには、済まないことをした」
目を伏せながらジャンはポツリと告げ、
「さあ、帰ろうソフィ。そう言えば、ジャン、最近ちゃんと食べてるのかな。痩せた気がする」
必死に練習しただろう、ジョゼフに成り代わった。
路地を抜けた時にそこにいるのは、もう、ジョゼフ・アンドレアだ。
「……お兄様……」
兄の見開かれた瞳が、ソフィを捉えた気がした。
息を飲んだソフィの耳に、声など届かない。ひゅうひゅうと木枯らしが吹き抜けるだけ……
「……私は……忘れないわ……」
兄の無念の死を、愛しい人の魂の死を悼む慟哭。血を失い、冷えていく亡骸にぽたぽたと涙が落ちる。
「忘れるもんか……!!」
ジョゼフ・アンドレアをモデルにした登場人物の名は、ジャン・コルヴォ。
もじることもなく、
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