10. 薔薇の真実

 ジョゼフは家に帰ってこなかった。


「ジョゼフ、どこに行っていた」

「申し訳ありません、父様。気が動転していて……。本当に僕ではないんです。……ソフィがジャンに聞いたそうですが……彼が、子爵家憎し、と……」

「……!……そう、か……それは、お前に済まないことを……」


 帰ってきた「ジョゼフ」は、確かにジョゼフ本人と何一つ変わらないように見えた。……エドガーは違和感程度なら覚えたのか、チラチラと相手の様子を伺う。


「……父様、僕は跡継ぎになるつもりはありません。……ジャンのことも表沙汰にしない方がいいでしょう。僕もベルナール家のアルマンのように、彼の劇団を手伝おうと思っています」


 それなら監視もできる、と、抜け目のない発言はいかにもジョゼフらしい。……少なくとも、それでエドガーの疑念は晴れた。


「……にい……さん……」


 熱に浮かされながら、ラルフは兄を呼んだ。

 謝りたかった。容易く失望が信頼を上回ってしまったことも含めて、一言でも。


「……ラルフ……」

「……兄さん……ごめんなさい……」


 痛みの中紡ぎ出されたその言葉は、ラルフの祖国……ドイツ連邦の響きをしていた。


「…………ゆっくり眠りなよ」


 その笑顔は、確かにこわばっていた。

 ラルフが目を覚ますまで傍らで待っていた兄。……彼の視線と、重ねることができないほどに。




 何日も、何週間も酷い熱に浮かされた。

 その最中に夢を見た。


 自分に花を手渡し、笑いかける少女の姿。

 炎に包まれ、それでも自分に向けて笑って見せた少女。

 そして、何度も、羽ばたいて自分の元に訪れては──


 ルディは、一度は生を諦めたラルフに力を授けて散った。

 小さき存在のために泣ける優しさを尊んだ。

 それが一見冷徹な方法であろうと、自分すら苦しむ方法であろうとも、救いたいと願う心を善きものと讃えた。


 森の中、陽光を照り返す泉のほとり。

 父が活き活きと語った言葉が蘇る。


「信仰はいずれ、お前の支えとなる。私はきっと先に逝くが、お前は更にその先へと向かいなさい。……神は、いつでもお前を見ている」


 ラルフは数奇な運命を生きた。されど、倒木から庇った父に、パンを多く持たせた母に、道を指し示した友人達に、望まれて生き延びたのだ。




「……ラルフお兄様?」


 ソフィが看病に訪れるのは、何度目だっただろう。……「ジョゼフ」はあれから、一度も見舞いにすら来ない。

 ちょうど祈りを終えたラルフの隻眼が、ソフィには銀色に光り輝いて見えた。


「よかった、もう起き上がれるのね」

「……ジョゼフ兄さんは、亡くなられたのか」


 落ち着いた声で、尋ねる。

 ぎょっと見開かれたソフィの瞳が、みるみると潤み始める。……兄たちと同じ色だな、と、場違いな感想すら浮かんだ。


「……ええ、そうよ。ジャンも、あの様子じゃもう……元の彼には戻れない……」


 スカートの裾を握りしめ、ソフィは声を絞り出した。

 涙は落ちない。必死に耐えて、肩を震わせている。

 ラルフは、もう萎れてしまった薔薇を見やる。


「……そうか、ソフィもルディの友達だったのか」


 脳裏に浮かぶのは煌めく瞳と弾んだ声。

 ルディ本人の記憶も、多少なりとも彼の胸に遺されている。


「……そうよ。いなくなってしまったけど……」

「ルディの礼儀がなければ、俺はここに来ることもなかった。……きっと、あの修道院で死んでいた」


 ラルフの言葉一つ一つが、静かな、それでいて重く沈痛な響きを宿していた。

 それでもやがて、腹の底から決意が湧き上がる。凛とした覚悟を宿した隻眼は、彼がこれより歩む茨の道を見据えていた。


「俺はルディに恩を返すよ。今のままじゃ頼りないだろうけど……強くなればいい」


 あの凛とした薔薇のように。

 気高き、銀色の狼のように。


「……俺はジョゼフ兄さんも、ソフィも好きだ。……ジャンのことも、好きなんだ」


 大好きな人々が生きた世界だからこそ、


「その涙を、無駄にしたくない。ただ翻弄されて生きるだけなんて……きっと俺は、耐えられない」


 その先にあるのが更に過酷な運命だとしても、

 死んだように生きたくなどはなかった。


「……ラルフお兄様」


 ソフィはじっとラルフを見つめ、今にも溢れ出しそうな涙を指で拭った。


「私は決して、忘れないわ。……絶対に覚えておくの。貴方がとても優しい人だって」


 近世から近代に移り変わりゆくフランスに生きた、とある地方領地の名もなき文官、ラルフ・アンドレア。

 不正の告発や小市民への奉仕と、血で血を洗う内部粛清の噂……2つの側面を併せ持った青年は、やがて、齢わずか27にして断頭台に散った。


「ソフィ、俺は──」








『咲いた花、そして空の鳥へ捧ぐ物語』アルマン・ベルナールド版より、「Andleta-IV」




「民が健やかに生きるため、できる限りのことをしてきた」


 何ということはない。最初からこの男の目的はそれだけなのだ。


「堕落し腐った根は早めに抜くに限る。……無論、私に負担はかかる。民が私ひとりを認めようと、邪魔者の存在を許すほど他の家臣は甘くはない。……彼らは立場より、己を選んだ者達だ。すなわち、堕落のために犠牲を払う者達だ」


 氷の刃を粛々と薙ぎ、ルマンダは私に告げる。


「ルインは、おそらく私に必要な安息だろう。……生温さがかつての私と似ているようだからな」


 積み上げた屍の前に眉一つ動かさず、それでも彼は祈りを捧げた。

 死んで当然と、私ならばそう切り捨てて終わるだろう存在を前にして、神に祈った。


「……さて、後は私とカークの仕事だ。心優しき彼の王にこの玉座はいささか重すぎよう。あの方を、広い世界に連れてゆけ」

「いや、お前も来い。王様にゃ参謀が必要だ」

「私は民を捨て置くわけにはいかん。追うとするならば、玉座が埋まるのを見定めてからになる」


 何かを振り切った表情で、ルマンダは微笑んだ。


「行け、賢者よ。……俺の迷いは既に晴れた」

「また会おうぜ。ここで終わりなんざ、許さねぇからな」


 だが、私も歓楽のために生きる身だ。

 そのような生き方が美しかろうと、認めることなどできない。


「……生きろよ。いざとなりゃ、つまんねぇもん放り捨てて走ってこい」


 彼は頷く代わりに私を鋭く睨んだ。


「詰まらぬものではない。これが私の真実だ」


 輝く銀の瞳は美しく、気高く、それでいて儚かった。








「弱い人達ほど笑っていられるようにしたい。……せめてこの土地だけでも、できる限りのことをする」


 窓から差し込む月の光。ソフィに向けて微笑む隻眼の青年の瞳は、燦然と輝いていた。


 彼の魂が貫いた真実は、ソフィがしかと物語に綴っている。

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