5. 啓示
「なぁ、話があんだけど」
その朝、いつになく沈んだ声で彼はやってきた。
「おはよう。ミゲル」
「……いや、あー……ミゲルって呼ぶのはちっと……」
チラチラと周りを見回しながら、ミゲルは小声で呟く。
「……今日はどんな名前?」
「気分的にはジャック」
「そうか。それでジャック。朝から何の用?」
ミゲルの胡散臭さにも慣れてきたのか、ラルフは寝ぼけ眼を擦りながら適当に相槌を打つ。
「……いや、なんつーか……」
「ラルフー!お花!お花咲いてたー!」
「…………えっ」
いつになく歯切れの悪いミゲルの背後から、思いがけない吉報が飛んできた。ベッドから跳ね起き、急いで庭園へと向か……おうとして、
「……とと!ありがとう、ガブリエラ」
「ん!」
笑顔のまま壁にもたれる少女の頭を撫で、修道女の呆れ顔に見守られながら今度こそ庭園へ。
ほかの薔薇が大方枯れかけたなか、ぽつんと「ルディ」は咲いていた。
「……やった」
小さく呟くラルフの背に、語りかける声があった。
「どうしたのかな?そんなに嬉しそうにして」
「俺が植えた花……!咲いた……ん、です……」
勢い余って振り返り、相手の身なりを見て思わず姿勢を正す。
上等にあつらえられた外套、悠然とした立ち居振る舞い……。
間違いなく、貴族かなにかだ。
「それは良かった。私にも君と同じくらいの息子がいるから、少々気になってしまってね。……ところで、院長さんはどこにいらっしゃるのかな」
「あっ、ええと……あちらの部屋です。よ、よろしければ案内しましょうか?」
「……いや、お気遣いなく。ありがとう、少年」
にこやかに笑いながら、男性はそのまま立ち去ってしまった。
……背中に、どこか哀愁が漂っているようにも見えた。
「……ありゃあ、落ち目の貴族様だな。外套の内側が継ぎ接ぎだ。近くで見られたくなかったんだろうよ」
「……いつの間に?」
「隠れてたんだよ。……綺麗に咲いたな、それ」
「あ、うん。良かった!」
嬉しそうに笑うラルフの背後から、困惑したような、それでいて気恥ずかしそうな声がする。
『また、恩を作ってしまいましたね……』
気にしないでよ、と小声で呟こうとする間もなく、
『ならば、私も全力で返さねばなりません』
凛とした、決意に満ちた台詞が続く。
「いや、別にそういうのは……」
「ん?どうした?」
「な、何でもない。……あの人、寄付に来たのかな」
「寄付するほどの余裕なんざねぇよ。養子にもらうガキでも探しに来たんだろ」
「あれ?息子がいるって……」
「……そりゃ、その息子さんも難儀なこって」
どういう意味か、尋ねるのは野暮に思えた。
この土地はフランスに近い。彼の国の貴族は特に、「革命」以降衰退の一途を辿っている。ならば、あの男性も無関係とは思い難い。
ラルフの土地は国どうしの小競り合いで荒れていたが、隣国も王政による独裁、国王を倒した後には断頭台による恐怖政治、更には「英雄」による戦争……と、お世辞にも平和とは言えなかった。
「ナポレオンとかいう人のせいで、こっちも散々だったらしいしね」
「そっちなんざ元々がギッスギスだろ」
「……まあ……否定はしないけどさ……」
その時、ひやりとした空気がラルフの背中を撫でた。
「……なぁ」
ミゲルが、躊躇いがちに口を開く。
「お前、あの人の養子になる気とかねぇの?」
『危険です。ここから早めに逃げましょう』
同時に耳に入った、二人の言葉。
「…………どういうこと?」
「いや……お前ならなれるんじゃねぇかなぁって……。たった数週間だけど、話してたら何となく……」
『賊の情報でも仕入れたのでしょう。……ラルフ様相手には、黙っておくことができなかったのでしょうね』
なぜ、そんなことが分かるのか。そして、ミゲルはそれを知っているなら、なぜほかの子供たちを逃がそうとしないのか。
ラルフには何一つわからないまま、先程の男性が修道女を連れて歩いてくる。ミゲルは何事か言いかけたが、見つかる前に逃げるように立ち去った。
「……おや?」
風がざわついた。
男性がふと庭園に目を向けると、跪くラルフの姿が目に入る。
「……遠路はるばる、お疲れでしょう。先程はご挨拶もなしに失礼いたしました、どうかお許しを。私はラルフ、と申します。貴方様にも、主の加護がありますように」
冷静に、「ルディ」は語る。突然身体を乗っ取られたラルフは目を白黒させているが、伏せた顔からは読み取れない。
「……ほう。これはなかなか礼儀正しい少年だ。……お父上はどうなされたのかな?」
「父はケルンの聖職者でした。されど、ゆえあって数年前に……」
「なるほど。それはさぞかし苦労をしたことだろう」
ラルフが冷や汗を流していることにも気づかず、男性は満足げに笑みを浮かべた。
「……ラルフ君、だったか。後で、来賓室に来るといい」
それは事実上、養子縁組の確定だった。
「…………ルディ?」
男性が去った後、ラルフは震える声で友人の名を呼ぶ。
『こう見えても、かつて、神に仕える身でしたので』
「そうじゃなくて、どうして……ええと、」
『…………周りの様子から、悟った、というべきでしょうか……』
ルディはそう語るが、これではまるで……天啓だ。
「……あ。ミゲル、ミゲルは?」
『……彼も気付いているのなら、逃げおおせるつもりでしょう』
「でも、他の子達は……!」
『…………ゆく宛があるわけでもなく、ましてや、生きる力も……。……致し方のないことです』
もし、神の導きであったなら、子供たちを救うことができるはず。
……いや、それとも、もっと違う何かをせよとのことなのか。
その、どちらでもないと、感覚的にわかった。
「ルディ……。お前は天使?それとも……堕天使、とか?」
『……どちらでもありません。ただの、亡霊です』
「……そう、だよな。…………本当に……見捨てないと、いけないのかな」
『…………他に手段はありません』
「……」
たった数週間だった。
それでも、彼はこの場所に救われた。父をなくし、周りからも見捨てられた傷を、確かに、癒してもらえた……。
「……残酷だね」
『……お優しいラルフ様には、酷なことだと、思います』
「俺は……いつか、誰かを救える人に……なれる、かな?」
『それは……ラルフ様次第でしょう』
「……そう、だね。……俺じゃ、きっと……。……無理だ」
その日のうちに、ラルフはアンドレア子爵に連れられ、フランスへ出立した。
仲間たちへの挨拶すら、まともにできなかった。顔を合わせて別れを言える勇気など、ない。
馬車の中、鉢に植え替えられた「ルディ」を抱え……ぽとりと、その赤い花弁に涙を落とした。
『……主よ、彼らの魂をお救いください』
静かな祈りの言葉が、ラルフの耳に届く。
『私は……その犠牲を、忘れはしません』
ルディはまたしても、ラルフの命を救ったのだ。
***
瓦礫を前に、ミゲルは立ち尽くしていた。
「……アイツ、逃げれたのか?」
信仰も、恩情も、意味をなさなくなってきたことなどわかりきっていた。
まだ少年の身である彼にできることなど、「誰か一人を逃がすこと」か「襲撃には決して加担しないこと」……それぐらいしか、なかった。ここから生き残りを探したところで、養うこともできない。
「仕方ねぇよなぁ……こんなご時世だもんな」
自分に言い聞かせるように呟く。すると、
「……ルイン?」
「廃墟」の名をつけたツバメが、突然空を舞った。ぎこちなく、瓦礫の上をふらふらと……。
「……分かったよ。探せばいいんだろ、探せば」
どうせろくなことなどありはしない。つらい感情が増すだけだ。
それでも、ミゲルは足を踏み入れた。
「…………ガブリエラ……」
少女は、既に冷たくなっていた。脚の悪い彼女のことだ。逃げることなどできないと分かっていた。
「……仕方ねぇわな」
それでも、ミゲルは進んだ。
「……お前の名前、結局わからなかったな。喋れねぇんじゃなぁ。……仕方ねぇ、よなぁ……」
少年の瞳を閉じ、ミゲルは叫んだ。
「おーい!誰かいるかー!?」
売られもせず生き残った子供など、本当にいるのか。
それでも、声すらもあげられなかっただろう亡骸を前にして、彼はひたすらに声を荒げた。
「返事しろ!!死にたかねぇなら……何か言いやがれ!!」
高貴な血がなんだ。
ただの娼婦のくせに。
病気もらってあっさり死にやがったくせに。
……心の中で運命に毒づきながらも、どこかで分かっていた。
彼女が与えた教養も、知恵も、何も持っていなかったのなら、彼もどこか別の場所でこうして野ざらしに……
「……En veure despuntar……」
「!」
聞き覚えのある旋律と懐かしい言葉。
……故郷の、歌だ。ガブリエラにせがまれて、よく歌っていた。
「……誰か、いんのか……?」
瓦礫の隅で歌っていたのは、
一人の修道女だった。
「……あんた、俺を見逃してくれてた……」
「……マリア、という洗礼名です。もっとも……もう、捨てなくてはなりませんが」
マリアはそう言って、傍らを……血を流して倒れる男を、虚ろな目で見やった。
「……ッ」
彼女が何も言わずとも、状況はわかる。
大きく衣服を切り裂かれた胸元で、虚しく十字架が揺れた。
「主は、私をお許しにはならないでしょうね……」
血のついた燭台が、ごとりと白い手から落ちる。
乱れた修道服を直すこともせず、マリアは再び歌を口ずさみ始めた。
「……それでも、」
──あたしはね、王族に愛されたのにこんな仕事をしてる。
ミゲルの脳裏に、母の声が蘇る。
「あんたは、生きてるじゃねぇか」
──生きるためだよ。そんで、あんたを生かすためさ。
それが単なる見栄や、客引きのための嘘だったとしても、
「神様の教えはこの際しょうがねぇ。……地獄行きが決まってんなら、こっから先、何でもできらぁ」
──あんたは他の奴らとは違うんだよ、なんたって、
必死に泥水すすって生きた、あたしの子なんだからね……
気に食わないこともたくさんあった。自分を置いてあっさり死んだのも腹が立つ。
それで苦労する羽目になったのだから、感謝するほどの恩もまだ感じられない。いや、好きになれることはこの先もおそらくない。
それでも、今、この瞬間だけは、母の言葉に感謝した。
「あんたが地獄に行くまで、見届けてやるよ」
「……呆れた。ずいぶんとませているのね」
女の瞳に、光が灯る。
「……手を、貸してくださる?」
「おうよ。……こんな下賎な手でよかったら、いくらでも」
「……それと……先程のお誘い、残念だけどお断りするわ」
ゆっくりと立ち上がりながら、マリアは静かに笑った。
「地獄に行くまで、私には「ここで」やるべきことがあるもの。……あなた、そこまでする気はないでしょう?」
「……おう、あんたの言う通りだ」
「フラれちまったか」と肩を竦めながら、ふと、ルインの姿がないことに気づく。
「……ああ、そういや、飛べるまでの期間限定だっつったな」
廃墟の上空を、確かにルインは飛び越えたのだ。
……ならば彼らも飛んでいくほかないだろう。
「あんたなら、こいつらを弔ってやれるだろ?」
「……ええ。決して忘れません。そして……二度目は起こさない」
「……こんないい女にフラれたってか、俺」
「まあ。……10年は早いですよ?」
「……知ってらぁ」
後に、復興した聖ミヒャルケ修道院には多くの手紙や寄付が届けられることとなる。
多くはアンドレア家の爵位を相続した、ラルフ・アンドレア子爵によって。
そして、保管された書物の中には、「その本」も……
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