第1章 少年の日々

1. 咲いた花

 過去の先に現在があり、現在の向こう側に未来がある。

 その軌跡を歴史と呼び、史実こそを正しさと定義するのなら……


 取り零されてきた想いは、果たして無意味だろうか?




 ***




「嘘だ……こんなの……こんなの……っ!!」


 森の中に、少年の慟哭が響く。

 悲痛な叫びは黄昏の静けさに染み入るように、決壊した感情を殺しきれない嗚咽は、足元の茂みに飲み込まれるように、誰にも届かず溶けていく。


 彼の育った村は、何の変哲もない山村だった。しかし、プロイセンとオーストリアの国境付近に位置していたことが災いとなり、時代のうねりに耐えきれなかったのだ。村人は皆貧困にあえぎ、生活に困った。

 ……父をこの森で早くに亡くしていた以上、彼が口減らしの標的として選ばれるのは、当然だったとも言える。


「誰か……誰かぁっ」


 どれほど泣いたところで、助けなど来るはずもない。

 まだ年端も行かない少年はおそらく、野獣にとって格好の餌だろう。

 このままでは朝を迎えられず、生きたまま野獣に食い殺される。


 鬱蒼とした森の中、音もなく忍び寄る獣。首もとに喰らいつかれ、腹を割かれ、そのまま鋭い牙で……


「……っ、嫌だ……!……母さん……みんな……」


 声を上げれば、余計に死が間近に迫る。木々の間からは赤い夕陽が差し込むが、道がわからない。日が暮れてしまえば、きっと二度と森の外へは……

 何度も何度も何度も嫌な想像が頭をぐるぐるとめぐり、少年はついに、その場にへたり込んだ。日が暮れ、月が上る。ああ、満月だ。獣はきっと、もう、すぐそこにいる。


 ……その金色を見つけたのは、神の導きだったのかもしれない。


 ガサガサと、背後の茂みがなった。


「ひゃあっ!?……え、鳥……?」


 物音に振り返った先にいたのは、カラスだった。

 猟師に撃たれたのか、羽から血を流してもがいている。

 月の光を反射した瞳がきらりと金色に輝いて、何かを見つめている。か細い鳴き声で、たった一点に向けて、救いを求めるように。


「……もう、無理するなよ。痛いだろ」


 少年はカラスを抱き上げ、ひと思いに首を折った。

 鶏を絞め殺すのには慣れていたが、それでも胸が痛む。

 少年の想いは通じたらしく、カラスはどこか安らかな表情で永遠の眠りについた。

 彼は静かに十字を切り、そして、「それ」の存在に気づく。


「……あ」


 カラスが見つめていた先にあったのは、一輪だけ残った野薔薇だった。

 凛と咲いた面影はあるものの、花弁はしおれ、鮮やかだっただろう赤色も黒ずんでいる。……それでも、カラスがそれに向かって鳴いていた理由はよく分かる。それほど……


「綺麗だね、お前……」


 薔薇の根を傷つけないように手近な石で土を掘り、カラスを埋葬する。埋め終わると、唯一渡されていた鞄に入った小瓶の水を、少しだけかけた。

 これで再び命がめぐり、別の蕾が花を咲かせるかもしれない。

 先ほどと何も状況は変わらない。それでも、不思議と穏やかな気持ちを抱けた。

 ……死んでいったカラスと、これから枯れていく薔薇のために祈りを捧げる余裕が生まれるほどに。

 ふと足元を見ると、ローズヒップが落ちている。拾い上げ、なけなしの荷物に加えた途端、今度こそ、確かに大きな獣が背後で蠢く音を聞いた。


 恐る恐る振り返ると、「それ」はいた。いつの間に現れたのか。白銀の毛並みを持つ狼が、こちらをじっと見ている。

 ひゅっ、と恐怖で喉が鳴る。覚悟を決めることなど出来ず、よろよろと後ずさる。が、狼は頭を垂れ、あろうことか言葉を話した。


『私と彼のために祈りを捧げてくださったこと、心より感謝します』


 落ち着いた、凛々しく澄んだ声色だった。


『何かお役に立てることはないでしょうか、ラルフ様』

「え、な、ええ!?しゃべっ……?あ、あと、俺の名前……んん!?」

『驚かせて申し訳ない。だが、危害を加えるつもりなどありません。……以前はお父上が、幼いあなたを連れてよく来ていましたね』


 父は木こりだった。

 木に押しつぶされて呆気なく死んでしまったから、ラルフは森が嫌いになり……道を、忘れてしまったのだ。


『村人たちも、あなたなら生きられる可能性があると思ったのでは』

「う……それを、俺、台無しに……」

『しかし、あなたの優しさは、私を救いました』


 狼は顔を上げ、気高く輝く銀色の瞳で、灰色の瞳を見つめた。

 少年の癖毛が風に揺れる。


『私はその薔薇として、この土地を見守っていた者です。どうか、あなたの力になりたい』




 ***




 事実は小説より奇なり。

 いや、あるいはこの出会いも書かれる予定だったのか。

 それとも幼い日の夢として、現実ではないと忘却されたのか。


 彼らの描きたかった「真実」に、さして重要ではなかったのか。


 すべては歴史の底に埋もれていた。


「Andleta」の主人公、ルマンダ・アンドレータのモデルであり、後に「Strivia」の書き手となる青年の名はラルフ・アンドレア。……またの名を、ルディ。

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