last season:春―待ちわびた季節―

雪が融けたら

 雪深い、真っ白な山を。二つの小さな影が、手を繋いで歩いていく。

「いい加減、泣き止んだらどうです。助かったんですから」

「だっでぇ……さむいし、つかれたよぉ」

「まったく。どうしようもないですねぇ」

「ふぐぅう……っ」

「……」

「…………」

「……」

「おねえちゃぁん……」

「青です」

「青ちゃん……おてて、つめたい」

「仕方ないのです。我慢してください」

「さむいのきらい。スキーなんて、きたくなかったのに……。はやく、あったかくならないかな……」

「この山は、時不知ときしらずの山ですから。どっちにしても、一年中雪が積もってるのですよ」

「そうなの? はるに、ならないの?」

「ええ。なにせ春待山、ですから」

「ふうん……」

「……」

「……ゆき、とけないのかぁ」

「融けないです」

「あのねえ、ぼくしってるよ。ゆきがとけたら、はるになるんだ」

「そうなんです?」

「うん! おひさまがぽかぽかあたたかくて、いいきもちになって。そしたら、ゆきがとけてね。もっともっとあったかくなって。それで、はるになるの」

「なるほど。でも、ここは一年中冬みたいなものですから、関係ないですね」

「うーん、だめかぁ」

「ダメですねぇ」

「……はるになったらいいのになぁ。そしたら、青ちゃんのおてても、あったかくなるのになぁ」

「……そうですか」


 二つの影は、どこまでも、どこまでも並んで歩いていく。それは、ただそれだけの、ささやかな記憶。


※※※


 ガタンと電車が揺れ。僕はハッと顔を上げた。

 目に入るのは、疲れた人々の顔と、窓の外の暗い景色。少し、うとうととしていたらしい。ビジネスバッグを持つ手に力を込め直す。アナウンスが馴染みの駅の名を繰り返すのが聞こえ、僕は扉の近くへと移動した。


 降りたのは、住宅街に近い駅だ。鞄を握りしめ、くたびれた革靴で夜道を歩く。

 足が向かった先は、他に建ち並ぶ家々となんら変わらない、一軒家で。「ただいま」と中に入ると、ぱたぱたという足音が聞こえてきた。


「お帰り」

 出迎えたのは――低く重厚感のある声で。

「ええっと……来てたんですね、お義父とうさん……」

 お義父さんは、口許に蓄えた髭を触りながら「ふん」と鼻を鳴らした。

「なんだ。婿殿は、出迎えが我では不満か」

「や、あの。そんなことはないですけれど。ただ、いらっしゃるなら、事前に連絡くださるとありがたいのですが」

「ならば、今度来るときは事前に念力で伝えるとしよう」

「そう言って、連絡下さったことないじゃないですか……スマホ持ちましょうよ、スマホ」

 言いながら靴を脱いでいると、廊下の角からひょこりと、妻が顔を出した。


「お腹ぺこぺこなのです。晩ゴハンはなんなのです?」

「……今日はおでん、です」

「おでん。イイですね。日中も花冷えって感じでしたし」

 ぺたぺたと近づいてくるなり、待ちきれなさそうに買い物袋を奪う彼女の手に、指先が触れる。ほんのりと感じる体温。思わず、まじまじと見つめる僕に、彼女が首を傾げる。

「どうかしました? ミナミ」

「……いや」

 首を振り、ポンとその頭に手を置いた。

「ただいま、青」


※※※


 春待山に芽吹いた季節外れの草花は、一晩で姿を消したものの。常に雪に覆われていた部分の雪が融けてしまったという春待山のは、地元のメディアに「温暖化の影響か?」と取り上げられるくらいには、ニュースになった。


 春待は消えてしまった。勝手に融けて、いなくなってしまった。消える前に、あんなこと言い残して――本当に、他人の気持ちが分からないやつだ。


 こんなこと、一人で抱え込むには辛すぎて。でも、こんなことを話せる相手なんて、そうそういるわけでもなく。

 結局、五月女と高嶺にだけは話したものの――「融けてしまった」ということが、二人にさえどこまで伝わったものか。


「僕のせい、だよな……」

 春待が融けた理由。それを思うと、呼吸の仕方を忘れそうになるくらい、胸が苦しくなった。

「正直、よく分かんねーけど……でも、みなっちのせいとか、そんなの。考え過ぎだろ」

 五月女は励ますように、そう言ってくれたけれど。きっとそれは「よく分かんねー」からで、僕の慰めにはならなかった。


「もし俺が……桜庭の立場だったらと思うと、すごく……辛いし。桜庭が自分を責める気持ちも、よく分かるよ」

 比菜子さんという、幼馴染みであり恋人でもある存在がいる高嶺は、難しい顔をしてそう言った。

「でもさ。じゃあ、どうすれば良かったのかって考えると……難しいよな。想いを伝えなければ良かったのか、って言うと、すごく考えた上でのことだったわけだろ? それに、桜庭の片想いってわけじゃなかったんだし。

 そうなると、そもそも出会わなければ良かったのか? ってなるけど。でも、十年以上の親しい付き合いなんて、お互いに影響与えてないわけがないし。そうすると、出逢わなかった時点で二人とも、今とは違う二人になってただろうから……桜庭の好きになった春待さんは、その時点で存在しないことになるよね」

 五月女が「高嶺は難しく考え過ぎだろ」と、げんなりした顔で言ったけれど。僕はなんだかすごく胸がきゅっとして、油断したらまた泣いてしまいそうだった。


 ――しぃちゃんは、無事に手術を終えた。入院中にお見舞いに行くことはできなかったけれど、春頃にはまた前のように歩き回れるようになるだろうとのことで、またみんなで遊びに行く約束もした。

 その頃には、もしかしたら僕も、少しずつ――ほんの少しずつでも、春待のことを考える時間が減っていくのかもしれないと。そんなことを、ほんの僅かな期待と、それ以上の恐怖を感じながら、思ったりもしていた。


※※※


 本当の冬が来て。春待山がまた雪化粧をし、普段の姿を取り戻しても。僕は相変わらず、胸の奥に重たいものを抱えていた。それでも、日常生活は送っていて、学校にも行っていて、食べ物も普通に食べてるし、友人との会話に笑ったりもしている。そんな自分の薄情さにがっかりしながら、僕は毎日を消化していた。時折――春待が隣にいないことに、切り裂かれるような空虚さを思い出しながら。


 年が明け、期末の勉強に友人たちと文句を垂れ、それも乗り越え――一年間を同じ空間で過ごしたクラスメイト達と別れた頃。




「南ー!」

 春休みの空気にだらけながら、すっかり日が昇ってからもベッドで横になっていると、母親の声が一階から聞こえてきた。

「お客さんよっ! いい加減、起きて降りてらっしゃい」

「……客ぅ?」

 呻きながら、もぞもぞと枕元のスマホ画面を確認する。朝の九時――朝早くから、とは言いきれないが、友人らが急に訪ねてくるにはやはり早い時間帯だ。スマホの画面には、特に新規の連絡もない。


「誰だよ……ったく」

 のっそりと起き上がろうとしていると、母親から追加の声が飛んできた。

「早くしなさいっ! 青ちゃんのこと、待たせるんじゃないわよッ」

 ガタンッ、と。大きな音を立てて、ベッドから転げ落ちる。そのまま部屋を飛び出ると、まろぶように階段を駆け下り、玄関へと走り出た。驚いた顔の母親と、その奥に。

「春待ッ」

「おはようございます、

 僕はつかみかかる寸前だった手を止め、目の前で微笑む、春待に似たを凝視した。

「あんた――」

「ちょっと、来ていただきたいのですけど」

 穏やかながらも、有無を言わせない口調に「行くって、どこへだよ」と相手を睨む。

「お山まで。会っていただきたい方がいます」

 会っていただきたい方……? 訝しげな顔をする僕の後頭部に、べしりと衝撃が走った。

「あんた。久しぶりに青ちゃんが来てくれたからって興奮してるんじゃないわよ。まずは服着てきなさい、服」

「服……え、あっ」

 トランクス一丁だった僕の顔が、一気に熱くなる。

「す、すぐ着替えて来るからっ! 待ってろよッ」

 わたわたと駆け戻りながら振り返ると、春待と同じ顔が、僕をにこにこと見送っていた。


※※※


「――すみません。でも、この格好が、一番お母様に不審がられないと思いまして」

 歩きながら、春待の顔がそう言うのを、「別に」と僕は首を振った。

「それより……さっさと元に戻ってくれないかな。田巻さん……でしょう?」

「ええ。ご名答です、桜庭くん」

 瞬きの間に、僕の隣を歩いている姿が、春待から田巻さんのものへと変わる。それから、こちらの前へと回り込み、深々と頭を下げてきた。

「その節は、大変失礼致しました」

「あ……や、その」

 正直、なんて答えたら良いか分からない。田巻さんと無垢姉さんのせいで死にかけたのは本当だし、でも二人が春待のためにそうしたっていうのもきっと本当で――今になって思えば、それは春待が融けて消えてしまうのを、警戒してのことだったのかもしれない。それに、なにより。


「あの、山の神の命令だったんでしょう?」

「まぁ、それはそうなのですけどー。でもあれ以来、お得意様だった桜庭くんが、まったく来てくれなくなっちゃいましたし」

「そりゃ……まぁ」

 口の中でもごもごと、言葉を濁す。とてもじゃないけれど、春待のいない春待山へ行く気になど、なれないでいた。


「それで、会わせたい人って、誰。まさか、あの山の神?」

「まぁ、それもあるのですけど」

 不意に、田巻さんが僕の両手を握った。

「行けば、分かります」


※※※


 僕らを中心に、風が巻き起こり、周囲の景色も分からなくなる。息も苦しくなった頃、ようやく穏やかになった風の向こうに見えた景色は――先程までいた街中とは別物の。岩肌が剥き出しになった、洞窟の中だった。


「ようやく来たか」

 重々しい口調でそう言ったのは、髭を蓄えた壮年の男で。白い袴姿に、白い髪という白づくめだが、鋭い目だけは紅く輝いている。

「え……っと、どちら様ですか……?」

「……我だ。春待山そのものにして、神である」

「え? あ……山の、神」

「敬称をつけろ矮小わいしょうなる生き物よ。末端の末端を実体化しているに過ぎないとは言え、本来なら貴様のような虫けらのごときが目にすれば、そのまなこが潰れる存在ぞ。不敬罪で天罰をくだすところであるが、今回は非常時でな。寛大にゆるしてやろう。感涙してむせび泣くが良い」

「はぁ……」

 相変わらず小さいというかめんどくさい神様だ。と言うか、実体化して口を得たからか余計にうるさくなっている。


「それで、僕を呼んだのは、なんなんです?」

「うむ。実はな」

 案外、素直に話を進めてくれるらしい。洞窟の奥へと歩き出したその背中に、僕と田巻さんもついていく。


 洞窟の岩肌は、なにもないのになぜかきらきらとあちこち光っていて、おかげで転ぶこともなく進めた。山の神のはく下駄の音が、カランカランとうるさく響く。

「ここは、青とヌシを落とした裂け目にできた空洞でな」

 振り返りもせずに、山の神が話し出す。

「千年以上、ここの地表は雪に覆われ、生命が育つこともなかった。そのため、こうして地下にその生命力が結晶化し、蓄えられていた状態なのだがな」

「はぁ……」

「先の冬頃、異変が起きたのだ」


 下駄の音が止まる。その先は行き止まりになっており、無垢姉さんがいた。無垢姉さんは難しい顔でこちらを見て、一歩下がった。

 そして、更にその奥に。


「春待……?」

 最奥の岩壁にだけ張り巡る、植物の太い茎や、枝葉。そして無数の蕾をまるで額縁のようにして。白い肢体を投げ出した春待が、眠っていた。


「青が消えた際に融かした雪――あれと共に、青を形作っていた生命力もまた、地中へと染み込んでな。それが、溜まりに溜まっていた地中の生命力と結合し、こうして新たな身体を造り出したようなのだ」

「春待……」

 腰より伸びた、少しウェーブがかった髪の色も、眉や鼻の形も、ぷくりとした形の良い唇も、全部全部全部――確かに、春待だ。


「春は、命の芽吹く季節だ。それに合わせるように、身体もできあがったようなのだがな。どうにもまだ目を覚まさぬ。思案しておったところ、無垢が、ヌシなら青を覚醒させられるのではと言うのでな」

 思わず無垢姉さんを見ると、肩をすくめてみせた。

「だってぇん。お姫さまが起きるには、王子さまのキスが相場でしょぉん?」

 前にどこかで、似たような台詞を聞いたような気がすると、ぼんやりと思い出していると。山の神がこほん、と一つ咳払いをした。

「我が娘を融かし消したこと、本来ならばどのような神罰を下しても足りぬ程の罪であるが――まぁ、これで青を目覚めさせることができたならば、帳消しにし不問としてやらぬでもない」

「……その前に、御自身が誤って傷を負わせてしまったので、どうも強気に出られないようなので。良かったですね」

 こそこそと、田巻さんが耳打ちしてくれるのを聞いて、僕はなんだか力が抜けた。


 改めて、春待に向き合う。

 その頬に触れると、ほんのりと温かい。驚いて思わず手を引っ込めると、無垢姉さんが少し笑った。

「その身体は、もう雪女ではないみたいなのよねぇん。単なる、生命力の塊なのん」

「構造的には人間に近いがな。だが、まったく人間と同じというわけでもない」

 ――人間に限りなく近い、でも人間ではないなにか。

 でも、なんでも良い。春待が、戻ってきてくれるなら。また、笑ってくれるなら。また――名前を、呼んでくれるなら。


 今度はしっかりと両頬に手を当てて、唇を重ねる。その途端、身体からなにかがふっと吸い込まれていく心地がし。

 一瞬、ふらつきなからも離れると。春待を飾っていた植物が、ぼんやりと光りを放ち出した。閉じていた蕾たちが一斉に花咲き、その中からは眠っていた蝶が飛び立つ。


「……ん……」


 満開の春に彩られる中。小さく身動ぎしながら、春待の両目がゆっくりと開いた。無垢姉さんらが、「青ちゃん」「青」と、口々に喜びの声を上げる。


「春待……」

「あれ……おはよう、ございます。ミナミ」

 僕の姿を認めた春待が、少し寝惚けた顔でにこりと笑った。

 春待の身体を岩肌に縫い止めていた植物がしゅるりと緩み、落ちてくる身体を慌てて受け止める。その体温も、重みも。なにもかもが、嬉しくて。嬉しくて。


「春待ぃ……っ、春待、春待、春待……青ッ」

「ちょっと、苦しいのですけど」

「うるさい、我慢しろ……僕はもっとずっとずっとずっと……苦しかったんだからなッ」

 「はぁ、すみません」と、春待がとぼけた声を出す。本当に、まったく、空気を読まないやつだ。


「大好きだ。大好きだよ青。だから、もう……ずっと、一緒にいてくれよ」

「え? あの、なんですか藪から棒に。その、わたしは」

 この期に及んでなにか言いかける春待――青の頬を、ぐっと両手で挟み込む。


「おまえ、融ける前に、俺に不幸になってほしくないって言ったよな。だったら……だからこそ、そばにいてくれよ。頼むから」

「ふぁ、ふぁなひてくだひゃい」

 変顔でもごもご呻く青に、僕は思わず笑ってしまい。


 頬から離した手で、青の手を握り締める。確かな命を感じる、温かな手。

「青が一緒にいてくれるのが、僕の一番の幸せだから。だから――これからも、一緒にいよう。ずっと。僕も……青が幸せであるよう、頑張るから。これからもっともっと、頑張ってくから」

 僕の精一杯の言葉に、青はキョトンとしてから、ふっと笑った。両手が、きゅっと握り返される。

「仕方がないですねぇ、ミナミは」

 その顔は、まるで。満開の花が零れ咲くような。

「そんなあなたを、愛してるのです」

 ――にっこりと、文句なしの笑顔だった。






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春待青は春を待っている 綾坂キョウ @Ayasakakyo

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