5.記憶の容れもの

「シズマ!?」


 絶叫に驚いて飛び出したエストレのすぐ傍を、ワイヤーソーが掠める。

 エディは、頭を抱えて床に伏しているシズマを押さえつけるようにして笑っていた。


「……何をしたの」


「怖い顔で睨まないでよ。抱きしめてキスしたくなっちゃう」


「何をしたかと聞いているのよ!」


 語気を荒げたエストレだったが、エディはつまらなそうに舌打ちをしただけだった。


「エストレ・ディスティニー。君が、君が君であると証明出来る?」


「それはどういう……」


「人格っていうのは、矛盾なく繋がる記憶により形成される。本人が完全に忘れてしまったものは、人格に影響を与えない。だから、自分が自分だと証明するには、記憶を自在に確認出来ればいい」


 何かの教本でも読み上げるかのように、エディは淀みなく言った。シズマの呻き声が小さく聞こえるが、そちらには殆ど注意を払わない。


「俺達の「父親」は、金欲しさに差し出された子供を使って、世の中にとって利益となる実験を繰り返した。俺の右足はそのためにこんな状態になった。確かどこかの会社の人工皮膚開発に役立ったんだったかな? 全然嬉しくないけどね」


 そして、とエディはシズマの頭を掴み、乱暴に撫でまわす仕草をした。


「シズマは記憶障害の治療に必要な臨床実験に使われた。催眠と投薬による記憶の生成と、剥奪。わかりやすく言うと、偽物の記憶をシズマに植え付けたり、実際の記憶を奪ったりしたってこと」


「そんなこと……」


「自分の中にある記憶が本物なのか偽物なのか、あるいは忘れてしまったのか全くわからない。父親はシズマにその日のことを詳細に語らせては、嘘の記憶と本当の記憶の差異について調べることを繰り返した。「全部嘘だよ」って言うと、面白いぐらいにうろたえるんだ。そんなことしてたからさ、あっという間にシズマの元の人格が消えちゃったんだよね」


 軽い口調でエディが放った言葉にエストレは一瞬、反応を忘れた。


「シズマは元はこんな性格じゃなかったよ。どちらかと言えば素直で大人しい子供だった。というかシズマって名前も後で付けたんだっけな。ねぇ、どうだったっけ?」


 エディはシズマの顔を覗き込んで問いかけるが、答えが返ってくる筈もなかった。顔を顰めて何かの苦痛に耐えている表情をひとしきり楽しんだ後に、再びエストレの方を見る。


「父親は空っぽになったシズマに何回も別の人格を入れた。人が思いつく限りのあらゆる非道な記憶も与えた。その研究結果は、どこかの施設が高く買い取ったみたいだよ。多くの人を救うための研究の陰で、一人の健康な子供が廃人にされたのなんか知らずにさ」


 それで、とエディは世間話でもするかのような気安い口調で続けた。


「俺はシズマを使って、父親を殺した。あの地獄にいるのはうんざりしたし、生き残ってたのも俺達だけだったしね。まだガキだった俺達に許された「独り立ち」なんて、そのぐらいだったよ」


「……それでシズマは殺し屋「カラス」になったのね」


「違う!」


 急にエディは声を荒げた。それまで聴衆にすぎなかったエストレに対して、明らかに強い敵意を示す。


「今までは俺がシズマをコントロールしてた。何でも言うこと聞いてくれる可愛い奴だったのに、ある日突然「カラス弐号」なんて代物を持って帰ってきた。どこかの技術者に貰ったとか言ってたけど、その時は気にしなかった」


 怒りに染まった両目はエストレをしっかりと捉えていた。


「二年ぐらい前だ。急に殺し屋「カラス」の噂話が流れて、シズマは俺の言うことを聞かなくなった。まるで、今までもそうだったように、自分で考えて自分で動いて、俺の元から離れて行った。これまで俺がやらせたことも、全部自分一人でやったかのように記憶まで塗り替えて。後でわかったよ。スラストって呼ばれてた技術者が、自分の娘を守る駒として、ACUAを使ってシズマを「カラス」に仕立て上げたんだ」


「貴方、ママのことを……」


「シズマを取り返すには、ACUAが邪魔だった。あのネットワークがある限り、シズマは自分が「カラス」であることを忘れない。いつもシズマの人格をリセットするために使っていた言葉キーワードも届かなかった。ここまで長かったよ」


 エディはシズマの右腕を持ち上げると、銃を握り直させた。その銃口はエストレの方へと向けられる。


「シズマ。あの子撃ってくれない?」


 俯いたままだったシズマは、その時初めて反応を示した。重力に抵抗するかのような緩慢な動きで首を持ち上げて、ゆっくりと左右に振って拒絶する。エディは白けたような表情を一瞬浮かべたものの、すぐにそれを聞き分けのない子供にするような柔らかいものへと変えた。


「気にしなくていいんだよ。あの子を殺したことも、今までのことも、俺が全部忘れさせてあげる。こんな変な武器じゃなくて、もっといいものを買ってあげるよ」


「……う、るせぇ」


「今回は強情だね。でもお兄ちゃんは許してあげる。何があっても、俺はお前と一緒にいてあげるから」


 シズマはもう一度首を振る。その右手、震える銃身の先でエストレはわざと大きな溜息をついた。どこか芝居がかった、エディに対する挑発も混じったものだった。


「本当に悪趣味な男」


「俺はシズマの幸せを祈ってるだけだよ」


「祈るだけなら駅前の銅像のほうが有能ね。貴方はシズマを使って自分が幸せになりたいだけよ」


「……あぁ?」


 薄ら笑いがエディから剥がれ落ちて、その下にある醜悪な表情が覗く。


「お前の母親にそれを聞かせてくれば?」


「ママの新しい住所を知らないのよ。でも一つだけ断言するわ。ママは誰でもよかったわけじゃない。シズマだからこそカラス弐号と私の運命を託したの。貴方みたいに都合の良い道具にしたのとは違う」


「黙れよ。そんなに殺されたい?」


 エディはシズマの腕を持ち上げて、再度撃つように促した。シズマの指は引き金に掛かったまま動かない。青ざめた唇は微かに動いていたが、何を呟いているかは誰も聞き取れなかった。


「撃ちなよ、シズマ。あの子のことを忘れても、お兄ちゃんだけは傍にいてあげるから」


「シズマ。撃ってもいいけど、忘れたら許さないわよ」


 エストレは場にそぐわない笑みを浮かべると、何も持っていない右手を軽く掲げて、親指と中指の先を付けた。


「折角、貴方の相棒を呼んであげたんだから」


 指が弾かれて、乾いた音が部屋に反響する。それを待っていたかのように、サーバが一斉に警告音を鳴らし始めた。

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