8.欠落したもの
「あいつは仕事だと言ったが、これがいつもの「掃除屋」の仕事には見えない。掃除の対象がイオリだとすれば、既に契約は終わっている筈だ。でも依然としてあいつは仕事を続けている」
「今回だけ仕事内容を変えたんじゃないの?」
エストレが正直な感想を口にするが、シズマは首を左右に振った。
「俺達みたいな連中は、自分の領分ってのをハッキリさせておく必要がある。そうしないと無駄に敵を増やすことになるからだ。ヴァルチャーはその点、狡猾に動く奴だから、不用意に自分の仕事のスタンスを崩しはしない」
「ということはまだ彼には掃除する場所が残っているというわけね。掃除当番表をチェックすべきだわ。全部ヴァルチャー君の担当です、って書いてある筈だもの」
「確実にイジメを受けてるな、可哀そうに。今日のホームルームの議題にすべきだ」
シズマはグラスを傾けて、再度中の液体を口の中に入れる。いつもはまだ飲めるその酒も、周囲に客がいない明るい場所では、ただの消毒液にしか思えなくなる。アルコールは口の中の水分を巻き込んで揮発し、独特の匂いをそこに残した。
「多分、あいつの掃除の対象は「ACUA」だな。ウィッチを動かすためにACUAを完全に無力化したい。だから、えーっと」
「フリージア」
「フリージアを消して、イオリを使ってブルーピーコックのパスコードを手に入れた。でもACUAは完全に消滅したわけじゃない。となれば、あいつにとって次の標的は、それを復旧させる人間ってことになる」
「要するに私達ね。だからヴァルチャーはこちらの動向を注視している筈よ。逆に考えれば、私たちはどう動いてもヴァルチャーと遭遇出来るということね」
笑顔でそう言う相手に、シズマはわざとらしい溜息を一度吐き、それから本気の溜息を重ねた。
「お前、わざとヴァルチャーのことを調べたな。あいつなら気付くと踏んで」
「気付かれずに動くのは無理だと判断したから、手札を見せただけよ」
「カードゲームだったら負け確定だな。ストッキング脱ぐ用意でもしておけ」
「カードはただのカード。ゲームはまた別物じゃない。ブタの手札でロイヤルストレートフラッシュを負かすのも一興だわ」
エストレは悪びれた様子もなく言うと、艶やかに笑った。一年前、シズマがその胸を銃で貫いた時に見せた笑みと同じだった。
それを見た瞬間、ノイズのようなものが脳の中を走る。シズマの知らない間に失われた記憶を、無理やり繋ぎ合わせているかのような、そんな不自然な映像が頭の中に浮かぶ。「フリージア」がそこにいたと言われても、シズマはそれを思い出すことは出来ない。しかし、確かに意識してみれば記憶の所々に欠落がある。
その欠落を覗き込みそうになったシズマは、慌てて意識を現実に引き戻した。たった一瞬のことだったため、二人の女はシズマの異変には気付いていなかった。
グラスに残っていた酒を一気に飲み干して、シズマは椅子から立ち上がる。先ほどと違って頭の中は妙に冷え切って、酒の温度が喉から胃の中まで真っ直ぐに落ちるのが感じられた。
「用が済んだら行くぞ」
「もう少しゆっくりしてもいいじゃない」
「山猫がどこか行ったら面倒だろうが」
二人がアイスローズに短い挨拶を告げたあとに店の扉を開けて外に出ると、この時間帯独特の酒と煙の混じった臭いが鼻をついた。
「シズマ、何か変よ。どうしたの?」
背中に投げられた言葉に応じることもなくシズマは歩き出す。直ぐ近くの空き店舗の前で、小型犬ほどの大きさをしたロボットが鋭い牙の並んだ顎を上下して何かを貪っていた。鼠を狩るために作られたロボットだが、実際には地面を這うものならなんでも噛み砕く。
ロボットの周りに油で濡れた黒い羽が散らばっているのを一瞥して、シズマは舌打ちをした。
「考えることが多いからうんざりしてるだけだ」
「脳の運動には丁度いいでしょ」
「あぁ、久しぶりに脳味噌をフル回転させてるよ。お陰で明日は筋肉痛だ」
欠落した記憶を見てもどうにもならない。連続して存在するはずの記憶が途切れれば、それに隣接した別の記憶も次々と崩れていく。何が正しくて何が間違っているのか、その判断すらも曖昧になって崩壊する。
シズマはそのことを嫌と言うほど知っていた。虚無と絶望を綯い交ぜにしたような感触と共に。それはあの鳥の羽に纏わりついた油脂のように、振り落とそうとしてもどうにもならなかった。
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