2.失われた記憶
空色の外壁を持つ建物は、夜闇の中でもスポットライトを浴びて輝いていた。三角形に突き出したエントランス部の屋上には、病院の名前が大きく掲げられている。この島国でも屈指の広さと設備を持つ大学病院であり、事あるごとにメディアに取り上げられる場所でもあった。
「表の病院に連れてくることになるとはな」
「だって、イオリは難病で入院していたこともあるんでしょ? カルテが残ってる場所の方がいいわよ」
ベンチに腰を下ろしたエストレはそう言った。病院の前庭通路に立っていたシズマは、その言葉に何度か頷く。
「わかってる、わかってる。でも俺にはこういう場所は合わないってだけだ」
「そうね、貴方はもう少しお洒落な病院が似合ってるわ。薬瓶にお花を入れて、注射器に猫の毛が入ってるような場所」
「否定はしない。……で、そろそろ教えてくれ。お前、どうしてあの場所にいた?」
エストレはその問いに対して、「そうねぇ」と首を傾ける。銀色の髪がさらりと肩の上を滑った。なだらかな首のラインが、病院の明かりに照らされる。一年前ならそこに歯車が浮き出るのを確認出来たが、今はただその下の血管が薄く見えるだけだった。
「逆に聞きたいことがあるんだけど、良いかしら」
「何だ? 俺の初恋の相手か?」
「それも興味あるけど、パジャマパーティの時にでも取っておくわ。……貴方、フリージアのことは覚えてるの?」
「花を買う用事はねぇぞ」
エストレはその答えを聞くと、失望したように目を伏せて溜息をついた。
「その分じゃ、イオリにも期待は出来ないわね。アイスローズもコーノさんも、皆忘れちゃってるんだもの」
「だから、何を」
「貴方の相棒よ」
シズマの脳の中に、ピリッとした痛みが走った。それを抑えようとして片手で額を覆いながら、シズマは今言われた単語を繰り返す。
「相棒?」
「そうよ。一年間も組んでいたのに、綺麗さっぱり忘れるなんて酷いじゃない。近所のジェニファーのほうが、まだ礼節を持っているわ」
「ジェニファーって誰だよ」
「ザリガニよ」
エストレは大真面目な顔で返す。ストッキングに包まれた足を組み替えて、黒いヒールの先で空気を蹴るようにしながら続けた。
「どうせ思い出せないだろうけど、教えてあげる。貴方にはフリージアっていう運び屋の相棒がいたの」
「そんな奴知らん」
「いたのよ。多分、私しか覚えていないけど」
シズマは思わず鼻で笑った。
「イマジナリーフレンドか。友達は多く作ったほうがいいぞ」
「私は真面目に言っているのよ」
「あぁ、わかってるさ。俺も小さい頃は大真面目に、天井の染みと会話したもんだ」
エストレは明らかに気分を害したように眉を寄せる。同時にその表情はあからさまにシズマを軽蔑していた。シズマが何か言うより先に、女は吐き捨てるように口を歪めた。
「私が天井の染みの話をしに貴方を助けに来たと思いたいなら、そうすればいいわ」
「いや違う。俺はただ」
「何が違うのよ。私は貴方を対等な存在として敬意を持っていたけど、どうやら出世祝いのパーティに呼んでもらえてなかったみたいね。今からでもお祝いのプレゼントを贈るわ。豚の首に「くそったれ」って書いた素敵なケーキよ」
「違う。君を侮辱したわけじゃない。あまりに突拍子のない話だったから、つい」
「あらそう。じゃあ今後、目の前にアンドロイドと人間のハーフなんて突拍子もない存在が現れたら、今のように言えばいいんじゃないの」
呆れ果てたように言うエストレ相手に、シズマは両手を肩の上に挙げる仕草で降参を示した。
「オーケイ。俺が全面的に悪かった」
「わかればいいのよ。素直さは美徳だわ」
「で、その……俺の相棒とやらはどうしたんだ?」
「消えたのよ。皆の中から」
先ほどと同じ内容を、言い回しだけ変えてエストレは繰り返した。
「占い師の見た目をした、男か女か、人間かアンドロイドかもわからない人。首に同じ名前の花をタトゥーにして刻んでいる」
「首に花のタトゥー?」
シズマはネットカフェで見た映像を思い出す。今、エストレが言った外見と全く同じ人物が映っていた。しかし、それでもシズマは何も思い出せなかった。ただ、脳裏を刺すような痛みだけが継続している。
「そんな得体の知れない奴を相棒にしていたのか、俺は?」
「実力は認めていたからじゃない? だから貴方は覚えているのかと思ったのに、残念だわ」
「で、なんだってそいつを皆が忘れちまったんだ? 全員で記憶喪失になったってわけでもないだろう?」
エストレは少しの間口を閉ざして考え込む。
「そうね。記憶喪失ではないわ。フリージアと皆を繋いでいたものが消失してしまったのよ。だから、皆思い出せないの。知っているのに、そこに至る経路がないのよ」
「消失?」
「停止、と言った方が良いかしら。貴方たちはそれを再起動しようとした。でもヴァルチャーによって遮られた」
シズマは相手が言っていることを理解すると、目を何度か瞬かせた。
「ACUAのことか?」
「そうよ。あれが停止したから、フリージアは消えてしまったの」
「さっぱりわからないな。どういうことだ?」
「フリージアは……」
エストレが口を開いた時、病院の夜間通行口からオセロットが出て来た。小柄な体には長すぎる三つ編みは、心なしか落ち込んだようにその穂先を地面に向けている。二人の姿を見つけたオセロットは、子猫が親猫に駆け寄るかのような足取りで近づいてきた。
「イオリ様は命に別状はないそうです」
「……そう」
エストレは最悪の予想を回避出来た安心感から、大きな溜息をついた。
「助かって良かったわ。これ以上、私の知っている人が消えるのは嫌だもの」
「いつかは死ぬさ。早いか遅いかの差だろう」
「それが子細な問題なら、徒競走なんてものは存在しないわ。……移動しましょう。警察に根掘り葉掘り聞かれたくないでしょう、二人とも?」
シズマとオセロットはほぼ同時に頷いた。
イオリの怪我が事故でないことはすぐにわかる。病院側が事件の可能性を考慮して警察を呼ぶことは考えるまでもなく明らかだった。連れて来たのが殺し屋と違法アンドロイドだと万一にも露呈すれば、事態はややこしいことになる。
「イオリのことは心配かもしれないけど、今は彼を信じましょう。きっと死神のデータベースをハッキングして自分の名前をリストから外すだろうし、心配は要らないわ」
ベンチから立ち上がったエストレは、二人の先に立って歩きだす。シズマはそれを追いながら声を掛けた。
「何処に行く。お前の家か?」
「ついてくればわかるわよ」
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