4.麻婆春雨と技術者
イケブクロのノースゲートの一角に、その店は存在する。店の名前はわからない。狭い店内をいくら見回しても、目に入るのは油にまみれた壁と、日に焼けて破れたメニュー表だけだった。
店の入り口のガラス戸だけは妙に真新しいが、かといって清潔かと言われれば誰もが否定を返す。掃除という概念が、この店には殆ど存在していない。
二人が到着したのは既に日も沈んで一時間経過した頃で、店内には他の客はいなかった。
「水餃子と回鍋肉、麻婆春雨お待ち!」
バランスの取れないテーブルに置かれた料理を見て、エディは笑みを浮かべた。
「そうそう、油ギトギトのテカテカ。チャイナフードはこうじゃないとねぇ」
「太って義足が折れりゃいいのに」
呪詛を呟いたシズマだったが、エディが何か答えるより早く笑い声が遮った。今しがた料理を運んできた小太りの男は、丸い赤ら顔に薄っすらと汗を浮かばせている。
「仲がいいんだな」
「てめぇの目は節穴か。これの何処が仲が良いように見えるって?」
シズマの険のある口調に対して、小太りの男は肩を竦めた。所々茶色く焦げたコック服は、店の内装とよく合っている。
「仲が悪い奴と飯を食うのか。だとしたら変わった趣味だぞ、カラス」
「政治家はよくやってるだろうが。仲良く二人で談笑しながら、テーブルの下で蹴りあってる」
「うちはそんな高尚な方々が来る店じゃないもんでね。大体、あんたら兄弟なんだろ?」
確認を交えた問いに、片方は肯定を返して片方は否定を返す。
「こいつが勝手にそう言ってるだけだ」
「しかし、噂で聞いたことがある。掃除屋ヴァルチャーと殺し屋カラスは兄弟だ、ってな」
シズマは箸を手に取り、水餃子を一つ摘まみ上げた。この店の看板メニューであるそれは、他の店に比べると非常にシンプルで素朴な味がする。長く食べ続けるには最適な味付けとも言えた。
「あれぇ? 俺がヴァルチャーだって言ったっけ」
麻婆春雨を食べていたエディが、不思議そうな表情を浮かべる。その目に警戒が滲み出ているのを見て、男は首を左右に振った。
「言ってはいないが、その義足ですぐにわかるさ。これでも、イケブクロで長く商売している。この辺りで仕事をしている連中には敏い。……というか、あんたこそ、此処にカラスがよく来るのを知ってるから来たんじゃないのか」
「どうだったっけなぁ。忘れちゃった」
わざとらしく惚けるエディだったが、それ以上何か言うつもりもないようで、再び春雨を箸で掬い上げる。
シズマは口の中に入っていた水餃子を飲み込んでから、ベルトに差し込んでいた拳銃を手に取る。並んだ歯車の一つが、その拍子にカチリと音を立てた。まるで食べ終わった皿を渡すような仕草で、銃を男へと手渡す。
「調整してくれるか? あと、ちょっと話がしたい」
「金さえくれるなら、喜んで。ついでに話にも付き合うさ。今日は珍しく暇だからな」
店主であると同時に、技術者でもあるコーノ・マサフミはそう言って笑う。
シズマの持つ銃「カラス弐号」は非常に複雑な構造をしており、並大抵の技術者ではメンテナンスが出来ない。とある工房で僅かな期間だけ作られていた希少品であり、今はその工房も無くなっている。
マサフミは一年前に探し当てた技術者で、恐らく今ではこの世でただ一人、シズマの銃をメンテナンス出来る人間だった。
「しかし、また無茶な使い方をしたようだね。歯車の回転が悪い」
「仕方ねぇだろ、こういう仕事なんだから。それとも、どこかの博物館に寄付してやろうか?」
「冗談じゃない。ただのガラクタになった銃を、ガラス越しに指咥えて見てろって?」
小さな棚から整備用の道具をまとめて持ってきたマサフミは、隣接するテーブルに革のクロスを敷いてから、カラス弐号を丁重に横たえた。薄く埃が積もった椅子に腰を下ろすと、整備用の道具をその周りに配置していく。
その時には、マサフミは既に料理人ではなく、技術者の目と化していた。
「で、話っていうのは?」
「ちょっと厄介なもんを抱え込んだんだ。あんた、運び屋知らないか?」
「運び屋ねぇ」
マサフミは銃を分解する手を止めぬまま、シズマの言った単語を繰り返す。
「この辺じゃ聞かないな」
「噂レベルでもいいんだが」
「噂、ねぇ」
小指の先ほどの小さな歯車を、鉤のついた棒で救い上げたマサフミは、少しだけ手を止めた。
「そういや、此処のところ噂話ってのを聞かないな。普段は店に来る連中が暇潰しとばかりに噂話に花を咲かせてるのに」
「ACUAの動きが鈍いって、エストレが言ってたぜ。そのせいじゃねぇか?」
「噂話あってこそのACUAだろう。それじゃACUAが噂話を動かしてることになる。起点と終点が逆だ」
逆、と言いながらマサフミは歯車を棒の先で器用に回転する。そして、それをあるべき場所に正確に嵌めこんだ。
「じゃあ話を変える。エンデ・バルター社について何か知らないか?」
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