第4話 ふだんの教室

 秋野聡一は変わった人間だ。

 

 まず、彼はとても頭がいい。そして、多くの能力が大多数の人に比べて高い。

 国内の最難関の大学を卒業し、その後、大手企業に進んだ。

 その会社で、入社して数年の社員にしては大きな手柄を立てた。


 そして、5年後にはその会社をやめ、2年ほど社会の表舞台から姿をくらました後、山の中に木造の校舎を借りて、個人経営の塾をはじめた。

 

 変な人だな、と僕は改めて思う。

 世間知らずの僕でもわかる。


 現在、31歳の彼は多くの分野に秀でている。

 読書はもとより、数学、化学、物理学、プログラミングなどの理系分野、哲学、歴史学、文章術、心理学などの文化的な分野も得意だと見ていてわかる。

 

 そして、先生の非凡さを見ていると感じる。

 どうして、こんなところで塾なんかをしているんだろう、と。


 先生ぐらい優秀なら、いくらでも稼げる道はあるだろうに。なんだったら政治家になって世の中を動かしたりしてもいいし、海外に行ってでっかい仕事をしてもいい。


 

 一度、先生にそれについて尋ねたことがあった。

「先生はどうして先生なんですか?」、と。


 我ながら変な聞き方だが、先生は瞬時に僕の言いたいことを理解したようだ。

  

「私がなんで教師をやっているかが聞きたいんですね?」と的を射た返しをしてくる。

「はい、そうです」とうなずいた。

 ずっと気になっていた謎がついに明かされるのか、と久しぶりにわくわくした。


 そしたら、

「それは、私の自己満足のためですよ」

と、先生はそれだけ言ってだんまりを決めこんでしまった。


 呆気にとられた。

 何を言っているんだ、この人。意味がわからない。大体、それではまったく答えになっていない。


わけがわからない。


 結局、そういうもやもやは晴れることがなかった。




 そして、今日も僕は先生の授業を受けている。


 先生の、秋野塾の授業スタイルは、ちょっと変わっている。


 まず、秋野塾では授業がない。 

 黒板を使って教科書の該当範囲を習うような時間はとらない。

 かわりに、それぞれの生徒が、それぞれのレベルに合わせた学校の勉強をする。

 具体的には、教科書や参考書を与えられ、それをこなしてゆくのだ。

 わからないところがあったら、国内最難関の大学を出た、博学多才の先生が個別に教えてくれる。

 これのおかげで、かなり遅れがちだった僕の勉強は、ずいぶん追いついてきた(具体的に言うと、現在中学3年生の僕は、ほぼ学習指導要領に追いついている。中学2年生の後半から勉強を再開し、中1の1次関数すらわからなくて絶望的だったころに比べれば、本当に進歩だ)。

 

 そして、勉強に疲れたらまったく違う分野の本を読んでいいし、動画を見てもいい。

 そんなとき、秀才中の秀才である秋野先生がどうでもいいような、しかしためになるような話をしてくれるので、とても興味深く感じる。

 例えば今日はこんな感じだ。


「麻斗くん、『岡潔おかきよし』という数学者を知っていますか?

 先生の大好きな数学者なんですよ。

 彼は『数学』という小難しい学問、数式がたくさん出てきてめんどうくさい学問を、『情緒』の学問だと言ったんですよ。

 『情緒』ってわかりますか?

 かんたんに言えば、『心』のことです。

 つまり、数学は頭で解くのでなく、心で解くのだと。心のない数学には意味がないのだと。

 そんなことを言っているんですよ。

 興味ないあったら調べてみて下さい」

 

 ……と、こんな感じだ。

 

 先生の話は純粋に面白いな、と思う。

 少なくとも自分は、学校の先生よりは断然秋野先生の話の方が好きだ。


 

 今日は、先生がそんな話をした後、少し表情を陰らせて、言った。


「ただ、こんな話ができるのも、君がとても賢くて、勉強が好きな中学3年生だからですよ。

 私が中学3年生だったころよりも、ずっと頭がよく、勉強が好きだと思います。

 この授業形態だって、そうです。

 君や、修司君、景さんが頭がよくて、勉強が好きで、3人という人数だからこそできるんです。

 

 それが、届かない人たちがどれだけいるか……」

  

 最後の方になるほど声が細くなっていき、弱まっていった。

 自身の無力さを自覚している者のトーンだった。


 そして、僕は前の質問の答えがそれなのだと直感した。

「先生はどうして先生なんですか?」

という問いに対する、解答だ。


 詳しいことはわからないが、先生もそれなりのものを抱えてここにいるのだろう。


 

 きっと、どこかが欠けているのは生徒だけじゃない。



 そして、終業のチャイムが鳴り響く。

 

 今日という日は、暮れていく。

 

 



 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

悲劇のヒーローから始める ケイキー @keikey

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ