第48話 君は優等生だからね

「いや、ほんとにやりたくないんだけど」

「おまえ、ほんとクズだな」


 香月が、呆れた視線をこちらに向けてくるけれど、そこまで非難されることだろうか。


「この流れで断るとか、ガチでひくわ」

「いや、かなり強引だったと思うけれど」


 ぐちぐちと文句を言う香月の横で、白殿が呟いた。


「杏、いいの」

「でも、零」

「この人にそんなこと期待していないから」


 さいですか。


「それに、これは私の問題だから、私が何とかするべきだから」

「大丈夫? せめてうちがついていこうか?」

「ううん、大丈夫だから」


 彼女の口かられた、大丈夫の声は、ずいぶんとかすれていて、その文字の意味するところを一ミリも含んではいなかった。

 そんな空っぽの言葉でも吐き続ければ、意味を持ち得ると思ってか、白殿はもう一度呟く。


「大丈夫」

「いや、ぜんぜん大丈夫じゃないだろ」


 放っておけばよかったのだろうが、空っぽな音が耳障りで、僕はつい反論してしまった。


「君の様子を見ていればわかる。君は親に歯向かうことなんてできないよ。諦めて、髪を黒く染めて親に従順な姿勢を示した方がいい」

「どうして、そんなこと」

「君が無理をしているから、無理をするなと言っているんだ」

「無理なんて」

「無理だよ。親に逆らうという行為は、

「……?」

「君の行動原理は正しいことだ。いや、正しいと言われていること、もっと正確にいえば、かな」

「何が言いたいのか、わかりません」


「つまり、君が優等生だということだよ」


 僕は白殿に告げた。


「君は優等生だからね。これまでずっと、親の言いつけをよく聞いて、先生の教えを正しいと信じて、従順によく守ってきた。言ってみれば、君にとってのだ。そして、その経典こそが君の行動原理」


とか、とか、とか、君の口癖が雄弁に物語っている。君は常に経典に書かれた言葉を読み上げているに過ぎない」


「経典に背くのは苦痛だよ。特に無垢むくなる信者である君にとってはなおさらだ。下手をすると精神を崩壊させかねない」


「親の言いつけなんて、経典の第一項に記されているものだ。たかが髪を染める染めないとかいうくだらない案件であっても、親が絡んできた以上、


「それが優等生であり、白殿零だろ」


 決して人格を否定するわけでもなく、性格をディスるわけでもなく、ただ単に彼女のありのままの状態を表しただけだけれど、香月はいささか怒り気味であり、白殿はキッと目をこちらに向けた。


「そんなことを言われる筋合いは……!」


 と、いつものように白殿はさらなる反論を口にしようとしたけれど、その勢いは何かに吸い取られたように削がれ、スッと身体から力を抜いた。


「いえ、あなたがそう言うのであれば、そうなのでしょう」

「え?」


 何、それ? きも!


「あなたは非常識なことばかり言いますが、に関しては目を見張るものがあります。だとすれば、親に逆らえないという私の今の現状も、きっと真実なのでしょう」


 そう告げた白殿は、何か憑き物が落ちたかのような顔を見せた。これまでの恐怖にかられたような緊迫感は薄れ、無抵抗に、彼女の雰囲気が緩んでいく。


 あぁ、そうか。

 彼女は、今、のだ。


 教師の言葉を聞くように、僕の言葉を鵜呑みにして、経典の存在を自覚し、彼らにとって都合のいい存在になるように、言い訳を作り上げた。


 ただ、それは――


「諦めるって、ことだな」


 もう一つの彼女の真実を――


「それで、いいんだな?」


 ――――否定するということだが。


「……」


 白殿零は沈黙をもって答えとした。


 それほどに強大な敵なのだろうか。僕は、白殿の父のことを知らないが、それでも家族なのであれば、そこまで恐れる必要もないと思うのだけれども。彼女がいい子だからだろうか。親の願いを叶えることを喜びとするような、いい子だからだろうか。それとも、いい子になることをいられているからだろうか。


 こんな女だっただろうか。白殿零という女は。いや、初めからずっとこの程度の女だったのは知っていたけれど、なんというか、本当にがっかりした。


 がっかり?


 僕が?

 どうして?

 白殿の現状よりも、自らの胸の内の方が混迷しており、いや、素直に言うならば、僕はどうやら思った以上に彼女に期待していたようだった。今となっては、もはやどうでもいいことかもしれないが。


 そんな僕の胸の内が配慮されるわけもなく、しばらくの沈黙の後に、今日の騒動の終わりを告げるインターホンのチャイムが鳴った。

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