第10話 昭和かよ

 白殿が、僕の頬を引っ叩き、怒鳴り散らして帰っていった、その翌日、ついに彼女はやって来なかった。


 やっと諦めたか。


 白殿が訪れる時刻、夕方の頃、玄関の呼び鈴を待っていた僕は、待ちぼうけをくらった。いや、待っているわけではないのだけれど、彼女の強烈な眼差しを受け止めるためには、少しばかり心の準備がいるのである。しかしながら、今日から、その必要もないらしい。


 安心する一方で、気の抜けたような、物足りないような、そんな肩透かし感を覚えた。


 ルーティーンって怖いな。


 ここ数日、毎日やっていたから、いつの間にかルーティーン化してしまったのだろう。あぁいうインパクトの強い出来事は、心労を減らすために、特に慣れやすい。


 決して、白殿に会いたいわけではない。


 まぁ、おっぱいが揉めなかったことは残念であるが、煩わしさから解放されたということをまず喜ぶべきだろう。


 僕は、『月間スイーツ』を読みながら、次にどんなお菓子を作ろうかと考えつつ、穏やかな午後を過ごした。


 そんな日々が一週間ほど続いた。


 静寂が破られたのは、一週間後の朝。まだが昇って間もない早朝に、玄関のチャイムが鳴らされた。


 目覚ましが鳴る前だったけれども、そのチャイムに予感を覚え、僕はハッと目を覚ました。


 ジャージのまま、階段を下りて、玄関に向かう。朝の早い父が、扉を開けて来訪者の対応をしていた。そして、父は家の中を振り返り、僕と視線を合わせると、まぁ、予感通り、僕の来訪者であると告げた。


 気を遣ってか、父は奥へと引っ込む。すると、玄関先に人の影。


 やはり、立っていたのは白殿零であった。


 いつものように制服に身を包み、きちりと踵を揃えて立っている。背筋はすっと伸びており、手前で鞄を両手で持つ姿は、ザ・学生と評するにふさわしい。


 ただ、そんなことは、どうでもよく、いや、気にならず、いや、、僕はある部分に釘付けになっていた。


「君、その髪……」


 彼女の麗しい黒髪は、青色、それもに染められていた。それこそ早朝の水平線に現れるような淡い青。太陽を呼び起こす青色は、夜を連想させる彼女の凛とした黒い瞳と対照的で、ゾッとする美しさを演出していた。


「まず、あなたに前言の撤回を求めます」

「はぁ」


 白殿は、真剣な口調で話し始めるが、僕の方は唐突な展開についていけていない。とりあえず、話を切り出す前に青髪の説明をお願いしたいのだけれども。


「私は軽い女ではありません」

「あ、あぁ、そうだな」


 淡い青髪で、以前よりも、ずっと軽い女に見えるようになっているけど、とは、さすがに言える雰囲気でなかった。


「私は、どんな理由があろうと身体を売ったりしません」


 そして、と白殿は胸に手を当てた。


「心も」


 それは、僕の発した言葉。

 彼女の口から零れ落ちた言葉に、思わず僕はゾッとする。


「そんなに気にしてたのか?」


 はっきり言って、ただの軽口だったのだけれども、まさか髪を青に染めるほど気に病んでいたとは。

 いや、やっぱり髪を青く染めた理由はさっぱりわからんが。


「別にあなたに言われたから、こうしているわけではありません。髪を染めたのは、と、あなたに証明するためです」

「証明?」

「私の心は私のものです。この髪も私の意思に従って染めました」


 あ、そういう欲求があったんだ。

 意外。

 個人的には、黒髪の方が似合っている気がするけれど。


「それから、今日、私はクラス代表を辞退してきます」


 ……まじか。


「いいのか?」

「えぇ、クラス代表は、井尻先生に依頼されて引き受けたものです。もちろん内申点を期待したものでしたが、進学にその程度の内申点は必要ありません。クラス代表を辞退することで、私が心を売っていないと証明します」


 白殿があまりにも真剣に語るので、僕は突っ込む言葉を失った。


「そ、そうか。がんばれ」

「あなたに応援される覚えはありません」


 じゃ、どうしろと?

 人生経験が浅いからか、コミュニケーション能力が低いからかはわからないが、白殿にかける言葉が見当たらない。


「放課後に、クラス代表を辞めた証拠を見せにきます。そのときに、ちゃんと謝罪してください」

「お、おう」


 辞めた証拠って、どんなんだろう。教師に証明書でも書かせるつもりだろうか。この女ならばやりかねないが。


 ん?


「君、?」

「は?」


 気づくと、白殿は小刻みに震えていた。真冬の寒さに耐えかねたかのように、彼女の肩がふるふると揺れる。


 その様子、寒いのでなければ。


「なぁ、、やめた方がいいんじゃないか?」

「な! 別に怖くなんてありません!」


 気丈に振る舞う白殿の意思とは裏腹に、彼女の声は震えていた。


「いや、本当に、無理しない方がいいと思うぞ。ほら、人には向き不向きがあるしさ」

「私はできます!」

「いやぁ、無理だと思うなぁ。いるんだよ、奴隷属性の奴って。人の言いなりになるように教育されてきて、もう

「バカにしないでください! 私は、そんな愚か者ではありません!」

「そうかなぁ。見るからに奴隷気質だけど。いわゆる心を売っ払った木偶。言われたことをただこなす奴隷。もしくは餌を口を開けて待つ家畜、つまりメス豚だな」

「家畜は引きこもりのあんたでしょうが!」


 はぁ、はぁ、と白殿は感情を高ぶらせたかと思うと、スッと息を吐いた。


「いいから黙って待っていなさい! 私がきっかりとクラス代表を辞めてきますから!」


 いつものように、白殿は自信満々に啖呵をきって、青髪をたなびかせ、優雅に踵を返した。やはり、その背中にかける言葉が見当たらず、僕は黙ってその後ろ姿を見送った。


 白殿も悩み抜いた結果なのだろう。これまでの自分の生き方を否定しかねない、そんな類の行動と判断。正直、そんな一大決心をするべき案件とも思えないが、彼女にとっては大きな分岐点となることだろう。震えるのも無理もない。


 ただ、心の自由を証明するために髪を染めるって。


「昭和かよ」


 さて、突っ込んでみたはいいものの、どうしたものか、と僕は頭をかいた。なんだか一大事になってしまったし、しかも、僕のせいっぽいし、でも、何かしてやる義理もないし、そもそも何かできるとも思えないし。


「はぁ」


 したらば、と僕は思いつく中で、最も安直で、先送り的で、けれども、正当な方法を実行しようと思い至った。


「学校、行くか」

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