第9話 おっぱいを揉ませてくれたら学校に行く

「おっぱいを揉ませてくれないか?」


 僕が、滑舌かつぜつよく、もう一度告げると、白殿はまるで未知の生命体を見るかのように、あっけにとられた顔を見せた。


「今何て?」


 理解が及ばないと、人はつい聞き返してしまうものだ。しかし、せっかく滑舌よく言ったのに聞き取ってもらえないのは、ちょっと悲しい。


「いいか、よく聞いてくれ。僕はおっぱいが揉みたい。だから、おっぱいを揉ませてくれないか?」


 はっきりと丁寧に告げたところ、白殿はやっと言葉の意味を理解したようで、自らの身体をそっと抱いた。


「頭おかしいんですか?」


 おまえに言われたくないと思ったけれども、まぁ、いきなりこんなことを言われれば、戸惑うのも無理なかろう。


「いや、まともだ」

「いやいや、まともな頭があれば、そんな犯罪行為を正面切って宣言したりしないでしょ」

「いやいやいや、おまえは了承する」

「いやいやいやいや、ないでしょ。どうやったら、こんな犯罪行為を了承できるんですか」


「おっぱいを揉ませてくれたら、学校に行く」


「!!!」


 白殿は、言葉を忘れたかのように、口をぱくぱくとさせていた。白殿の逡巡とした反応こそが、僕の言葉が彼女に届いたのだと、確信をもたせる。


 交渉ごとをするとき、最も重要なのは、相手の核心を探ること。核心、それは、何を大事に思っているか。白殿の場合は、僕の登校でも、クラス代表の立場でも、先生の依頼でもなく、内申点なのだ。


 いわゆる俗物。

 正義や信念や宗教でないとわかれば、俗人の交渉が可能である。


 つまり、おっぱいが揉める!


 僕は、ごくりと唾を呑み、白殿のちょうどよい大きさのおっぱいを見やると、白殿は胸を隠すように身体をひねった。


「え、普通に嫌ですけど」

「何でだよ!」


 僕が憤慨していると、白殿は、心底、戸惑った表情を浮かべていた。


「え? そんな驚くようなことですか? これに関しては、何の異論もなく、普通の女子ならば普通に嫌だと思うのですけれど」


 ……まぁ、そうかもしれないけれど!


「くそっ! 急に常識人ぶりやがって!」

「私はずっと常識的なことしか言っていませんけど!?」


 そこには異論の余地があると思う。


「いいじゃんかよ。減るもんでもないし」

「なんて、典型的なセクハラ……」

「はぁ、何だよ。揉めないおっぱいに何の価値があるんだよ」

「あなた、自分が何を言っているのかわかってますか?」

「なんだよぉ。揉ませてくれないんなら、おまえはそこで何やっているんだよ。さっさと帰れよ」

「クズだとは思っていましたけれど、ここまでとは……」


 白殿は、寒そうに肩を摩った後に、はぁ、とため息をついた。


「いったい、どう考えたら、私が、そんな要求を受け入れると思うんですか?」

「いや、内申点欲しさに、と思って」

「……バカなんですか? 確かに私は内申点のために、あなたに登校を促しています。けれども、そのために身体を売ったりはしません。当然でしょ」


「わからないな。のに」






「……は?」



 僕が告げると、白殿は眉をひそめた。


「どういう意味ですか?」

「ん? だって、君は内申点欲しさに、先生の奴隷になって、やりたくないことをやらされているんだろ。それって、先生に心を売って、内申点を買っているってことだろ」

「そ、それは……」


「僕が思うに、人が最も大事にすべきものは、心だと思う。月並みだけど、そのことをみんな、忘れがちだよね。会社で定時を待つだけのサラリーマンとか、家族の顔色をうかがう父親とか、塾に通わされる受験生とか、とか」

「そんなこと、私だって……」


「大事な心を、そんな簡単に売れるなんて僕には信じられない」

「別に心を売ったわけじゃ」

「だけど、そんな心を易々と売っちゃえるようなの身体は、もっと軽いんじゃないかと思ったんだよ。まぁ、期待外れだったけどさ」


「うるさい!」


 白殿は立ち上がり、叫んで、そして、僕の左頬を、その右の掌で思いっきり打ち抜いた。


「痛っ! 何すんだよ!」

「うるさい! あなたがそんなふざけたことを言うからでしょ!」

「僕が何か間違ったことを言ったか?」


「うるさい!」


 僕が頬を摩っていると、白殿は頭を抱えた。


「私が軽い女? 心を売っている? そんな戯言、意味がわからない。この人、狂っている……、狂っている!」


 その戸惑いが、疑いが、白殿自身がそのことを既に理解していたこと、そして、決して気づかないように努めていたことの紛れもない証明であった。だが、やはり、気づきかけたというその兆しさえ、白殿は直視できずに、頭を抱え苦悩していた。


 つまらないことでひどく悩んでいる白殿の様子があまりに滑稽で、僕はつい笑ってしまった。


「身体よりも心の方が安いのなら、そっちを買えばいいのかな? たとえば僕のことを好きになってくれたら、学校に行くとか」


「バカにするな!」


 白殿は、もう一度、叫び、もう一度、僕の左頬を引っ叩き、それから、部屋の扉を蹴飛ばして、出て行った。


「あいつ、本当に自由だな」


 じんじんと痛む頬を摩りながら、僕は心底思った。


「あんな不自由な生き方してんのに」

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