36

「ヘルマン様……」


 ヘルマンがくれた溢れんばかりの愛の言葉を聞いても、なお嘘みたいだと思った。そうだったらいいな、と思ったことは何度もあったけれどその度に否定してきた。もうそうして否定する必要がないなんて、夢のようだ。


「例え遠く離れても、ルーテシアのことだけを想い続けます。ですから、可能ならばこのまま離縁せずに……」

「え?」


 懇願するようにそう言われて、ルーテシアは自分で涙を拭ってきょとんとした顔をする。


「私のこと、プルガトルにつれて行ってくれるんじゃないんですか?」


 今度はヘルマンが驚く番だった。目を見開いてまじまじとルーテシアを見る。


「もちろんそうしたいですが、そうすると仕事は……」

「プルガトルにも本はあるじゃないですか」


 ルーテシアは「何を当たり前のことを」と言わんばかりの声色だ。


「ヘルマン様は本を買ってきてくれましたよね? つまり、プルガトルにも本屋はあるってことですよね?」

「それはそうですが……」

「それならそこで働けるようにお願いするだけです。私は本に関わる仕事ができればいいのですから」

「アルビリオン王立図書館で働けなくなっても、ですか?」

「もちろん寂しいですけど、プルガトルにある私の知らない本のことを考えるとそちらも魅力的だなって。それに、ヘルマン様も一緒ですから」


 ルーテシアは曇りのない笑顔を見せた。ヘルマンは拍子抜けした様子だ。


「王立図書館がなくなると言ったらルーテシアがあんなに怒るので、そこ以外は無理なのだと思っていました」

「あれはヘルマン様が悪いんですよ? 本当になくなってしまうのかと思って、肝を冷やしました」

「すみませんでした。詳しく話すことができなかったとはいえ、聞き方が悪かったですね」


 ヘルマンは可愛らしく頬を膨らますルーテシアの顔を片手で包む。


「以前の私ならもっと悩んでいたかもしれませんが今は……私もヘルマン様のお側にいたいので」


 ルーテシアは照れながらも自分の気持ちを素直に口にする。そんなルーテシアにヘルマンが改めて尋ねた。


「それでは、ルーテシア。私と一緒にプルガトルに行ってくれますか?」

「はい、もちろんです!」


 ルーテシアは満面の笑みで即答する。


「そうならばと思って、気が早いですけどこんな本を読んでいました」


 ルーテシアは花束の下に置いた、先程まで読んでいた本をヘルマンに差し出す。その表紙には『アルビリオンとプルガトル 言語の違い』と書かれている。


「この前、初めてプルガトルの本を読んで気がついたんです。同じ言語を使っていても、微妙に言い回しや言葉の使い方が違うんですね。だから、理解できない部分があって。この本がすべてではないと思いますが、今のうちに勉強しておこうかなって」

「ルーテシア」


 安堵の表情を浮かべてヘルマンがルーテシアの身体を引き寄せた。ぽすっとヘルマンの身体に収まったルーテシアもヘルマンの胸に頬を寄せる。


「よかった。ルーテシアと離れることになるかと思いました」

「私もです。捨てられてしまうかと」


 二人は至近距離で目を合わせた。


「そんなことはしませんよ。ルーテシアが望まない限り」

「それじゃあ大丈夫ですね」


 ルーテシアが笑う。ヘルマンは再びルーテシアに口づけようと顔を近づけた。


「あ、ヘルマン様。お食事をなさいませんと」


 唇が触れ合う直前に、甘い空気にそぐわない声色でルーテシアが言うので、ヘルマンは苦い顔をする。


「食事はいいです。今日一日くらい」

「ダメです! 近衛騎士になったのでしょう? 身体は資本ですから、ちゃんと食べていただかないと」

「いえ、ですが……」

「ダメですよ、わがまま言ったら」


 ルーテシアはヘルマンの胸を押して身を離す。ヘルマンは名残惜しそうな顔をしたが、そんなことはお構いなしだ。


「さ、食堂に参りましょう! 食事の間は、この本で学んだことをお話しますね!」


 ルーテシアは勢いよく立ち上がってリビングから出ていく。ヘルマンも仕方がないのでそれに続いた。


 しかしルーテシアは少し進んだところで急に立ち止まってヘルマンを振り返る。


「あ!」

「どうしました?」

「大変! 私、大事なことを忘れていました!」


 ルーテシアはそう言うと、ヘルマンの前まで駆け戻ってきた。


「どうしましたか?」

「ヘルマン様!」


 ヘルマンに向けて、ルーテシアは顔を赤くしながらもじもじとする。そして少しの後、思い切って続けた。


「私、ヘルマン様のこと、大好きです!」


 耳まで赤くして、ルーテシアはそう言い切る。その後で恥ずかしそうに「大事なことなのに言い忘れていました」と、えへへと笑う。一瞬呆気に取られたヘルマンだったが、たまらずに表情を崩す。


「ふはは」


 漏れ出た笑いにルーテシアは固まった。目をまん丸くしてヘルマンを凝視する。


(笑って、いる……)


 ヘルマンは眉尻を下げ、目は細く弧を描き、口角を上げていた。こらえきれないようにどこか苦しげに笑い声を漏らす様子は、懇親会で見た時より更に笑顔と呼ぶにふさわしい顔だ。


「ルーテシア。貴女という人は、本当に……」


 ヘルマンは笑いの合間に苦しそうに言う。じっと固まって見入っていたルーテシアは、ヘルマンの腕によって引き寄せられた。


「愛していますよ」


 耳元で囁かれた言葉に心臓が爆発しそうになる。ルーテシアもヘルマンに思い切り抱きつく。


「……やっぱり食事は後でいいですか?」

「もう、ヘルマン様。ダメですよ」


 ルーテシアも、愛おしい妻を抱きしめたヘルマンも、二人共笑っている。誰が見ても幸せな夫婦がそこにいた。



 “笑わない騎士”の笑顔は妻が引き出す。それはこれからもずっと続いていくに違いない。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

クールな旦那さまが笑う時 弓原もい @Moi3

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ