35

 ヘルマンの近衛騎士就任が正式に発表された日の夜。仕事が終わってから、ルーテシアは家に帰って食堂で本を読んでいる。こうして食堂でヘルマンの帰りを待つのは初めて交流を持った頃以来だ。


 最近はリビングで待っていればヘルマンが迎えに来てくれた。ただ今日は避けられてしまうかもしれないと懸念し、食堂で待つことにしたのだ。


 覚悟を決めると、不思議と怖さはない。緊張はあるが、ただ待ち遠しいとさえ思っている。


 だが近衛騎士となることが正式に発表になったからか、ヘルマンの帰りは遅い。ルーテシアは緊張しながら、今日借りてきたばかりの本を読みふけっていた。


 ヘルマンが帰宅したのは日付が変わる頃のことだ。物音が聞こえて、初めて食堂で会話した時もこのくらいの時間だったことを思い出して僅かに笑みをこぼす。その後で緊張から顔をひきつらせたが、悪い緊張ではなかった。


 いつもよりも慌ただしい足音と共にヘルマンが食堂に入ってくる。驚きから目が見開かれたヘルマンの手にはピンク色の大輪の花束が抱えられていた。


「ルーテシア……!?」

「おかえりなさいませ、旦那さま」


 ルーテシアは立ち上がって挨拶をする。


「待っていて、くれたのですか?」

「はい。少しお話がしたくて。まずは食事を……」

「いえ、食事など後で構いません」


 ヘルマンはつかつかとルーテシアの元に歩み寄り、手を取った。


「リビングへ行きましょう」

「……はい」


 そうして二人は手を取り合ってリビングへと移動した。


 リビングへ入ると二人はソファに並んで腰掛ける。二人の間には微妙な距離が開いていた。


「あの、その花束、近衛騎士のお祝いでもらったのですか……?」


 どう話を切り出していいかわからず、ルーテシアはヘルマンが抱えている花束の話題を出す。ヘルマンは今気がついたように花束に目を落とした。


「あ、いえ。これはルーテシアに」

「私?」


 すっと押し出された花束を勢いで受け取る。色濃いピンクの大輪の花からは華やかな香りがした。


「こんなものでルーテシアの機嫌を取れるとは思っていませんが……」

「あ……」


 ヘルマンの言葉で昨夜のことを気にしてプレゼントしてくれたのだと気がつく。ルーテシアは申し訳なさから眉尻を下げる。気持ちはすっかり凪いでいた。


「昨日はごめんなさい。私、子供みたいに……」

「いえ、当たり前のことだと思います。この結婚は、結婚後もルーテシアが仕事を続けられることという条件があったのですから、急にプルガトルだなんて」

「あ、えっと、違うんです!」


 ルーテシアは勢いよく首を振る。やはりヘルマンは誤解しているようだ。


「私、ヘルマン様が近衛騎士になること、今日の掲示で知ったんです」

「……? 昨日から知っていたのではなかったのですか?」

「違います! 王族の結婚に絡んだ話だなんて、私が知る術はありません」


 誤解を解くために一生懸命に訴える。ルーテシアの訴えにヘルマンは1つ頷く。


「そうでしたか……確かに機密事項なのでどうやって知ったのかと思っていたのですが。私が勘違いをしてしまったのですね」

「すみません、私もはっきりと聞かない内に勘違いしていて」


 ルーテシアはテーブルの上に花束をそっと置いた。


「えっと、近衛騎士、おめでとうございます。すごいことだと思います」


 例え女性王族であっても、近衛騎士に選ばれるのは誉れ高いことだ。ルーテシアはお祝いを言うが、ヘルマンは渋い顔をしている。


「ありがとうございます。ですが、プルガトルに行かねばなりません」

「はい」


 ルーテシアもこの命令が絶対であることはわかっていた。どんなに嫌だと言っても、ヘルマンは行くしかない。それは騎士になった者の定めだ。


「あの、ヘルマン様は昨夜、私についてきてくれないのかと尋ねられましたが、私も連れていってくれるおつもりだったのでしょうか?」

「ええ……」


 ヘルマンは眉間に皺を寄せる。


「ですが、そうするとアルビリオン王立図書館で働き続けることは難しい。仕事を続けたいと私と結婚してくれたのに、その約束を破ってしまうことになります」


 ヘルマンはルーテシアも一緒にプルガトルへ行くことを望んでいた。だがその望みをルーテシアの仕事のことを考えて諦めようとしている。ルーテシアを考えてのことに心が温かくなった。


「あの、ヘルマン様。私、お伺いしたいことがあるんです」

「はい、どんなことでも」


 ルーテシアは膝の上に置いた手を握る。この質問をするのは勇気がいることだ。きっと傷つくだろう。しかしいつまでも目を逸し続けるわけにはいかない。


「隠さずに、真実を教えてください」

「? はい」

「えっと……」


 いざ聞くとなると怖気づいてしまう。しかしルーテシアは勇気を振り絞って続けた。


「ヘルマン様の現在お付き合いしている女性もプルガトルへ連れて行かれるつもりですか?」

「……は?」


 普段ほとんど表情を動かさないヘルマンの口が開く。


「お付き合いしている……とは、どういう意味ですか?」

「隠さなくても結構です。私は知っていますから」


 察しの悪いヘルマンに苛立ちそうになる。それでもここで怒ってしまったら昨夜と同じことになってしまう、とルーテシアはぐっと堪える。


「ルーテシアではなく?」

「違います。あの銀の髪の女性です」

「……銀の?」

「ええ。毛先がこの花のようにピンク色でした。痩せていて、胸が大き……」

「ちょ、ちょっと待ってください」


 ヘルマンがルーテシアに片手を出して言葉を止めさせた。


「ルーテシアが言っている人物に心当たりがあります。しかし、お付き合いしているとはどういう……」

「いいんです、見ましたから、私。昨日の昼過ぎのことです。町でその女性と一緒に歩いていらっしゃいましたよね? もし、その方とも結婚なさるつもりなら……」

「ルーテシア」


 淡々と言ってはいるが、言葉を発することをとても辛そうにしているルーテシアの手をヘルマンが握る。下を向きかけていた顔が上を向き、二人は目が合った。


「誤解です。まさか見られていると思いませんでしたが……」


 ヘルマンは空いた手で眉間を抑える。


「誤解、とは?」

「ルーテシアが見た方は、アンジェリカ王女です」

「……え? ええぇ!?」

「まさか顔を知らないとは」


 ルーテシアは目を見開いた。王族の顔は滅多に目にすることがないが、催事には顔を出す。普通の国民はそこで王族の顔を見ているが、ルーテシアは違う。いつも「人混みは嫌。本を読んでいます」と言って王族が参加するような催事には参加していなかった。


 おそらく一人でも王族の顔を見ていたならわかったはずだ。銀髪は王族の特徴であるし、毛先の色がピンクなのも現国王と同じだからだ。


「アンジェリカ王女が夫となるベーカゼリス様にアルビリオン王国の特産品を贈りたいと言い出しました。それも自分で町へ出て選びたいと。私は内々には数日前に近衛騎士になることが決まっていましたので、護衛のために共に町へ」

「そ……そうだったのですか」


 淡々と説明されて、ルーテシアは肩の力が抜けていく。事実を理解すると、安堵が身体中に広がった。


「なんだ……じゃあヘルマン様が恋人を作られたわけではなかったのですね……」

「当たり前じゃないですか。ルーテシアがいるのに恋人などと」

「で、でもヘルマン様は男性ですから、私以外の女性とも結婚できますよ!? それに、私達は恋愛結婚ではないですし……」


 語尾が尻すぼみに小さくなる。自分に自信が持てないこともあるが、それ以上にヘルマンが怖い顔をしたからだ。


 怯えた様子のルーテシアを見て、ヘルマンが気分を変えるように首を振る。


「いえ、私がいけませんでしたね」

「?」


 ルーテシアは小動物のようにくるりと目を丸くしてヘルマンの様子を伺う。ヘルマンは優しくルーテシアの両肩に手を置いた。


「はっきり言っておきます」


 真剣な表情のヘルマンは真っ直ぐにルーテシアの瞳を見てこう言う。


「私はルーテシア以外の女性と結婚するつもりはありません」

「え……」


 ルーテシアの胸がトクリと跳ねた。頬は赤く染まり、目をキョロキョロと左右に動かす。


「えっと、でもそれは……」

「結婚だけじゃない。他の誰かを愛するつもりもありません」

「ヘルマン様……」


 ルーテシアの両瞳がキラリと涙の膜を張った。


「ルーテシアに気を使っているわけではありません。これは私の意志だ」


 迷いなく言い切るヘルマンの言葉に疑う余地はない。ルーテシアは必死に涙をこらえながら頷く。そんなルーテシアの頬にヘルマンの手が触れる。


「ルーテシア。私は貴女のことを愛しています。何人も愛せるほど私は器用ではないし、ルーテシア以外の誰かを愛したいとも思いません」

「ヘルマン、様……」


 ぽろりと涙が溢れ、それを予期していたかのようにヘルマンの手がすぐに拭った。一番知りたかったヘルマンの気持ちが自分の望んだ通りのもので、信じられない気持ちになる。


「初めはこんなにルーテシアを愛おしく思える日が来るとは思ってもいませんでした。ですが、一緒に過ごす内、ルーテシアの思慮深く優しいところに惹かれたのです」

「ほんとうに……? 本当ですか?」


 涙声の拙い言葉でルーテシアが確認した。


「はい、ルーテシア。何度でも言います。貴女のことを愛しています」


 ヘルマンは慈しみを含んだ声でそう言ってルーテシアに触れるだけのキスをした。

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