29

 懇親会の日から二人の距離感が微妙に変わった。その1つが、前から時間が合えば顔を合わせるようにしていたが、ルーテシアの出勤前にヘルマンが起きて見送ることが普通になったことだ。


 それだけではない。必ず玄関まで送りに出るヘルマンは、別れ際ルーテシアにキスをするようになった。それは額だったり頬だったりするのだが、日によっては唇に軽く触れるだけのキスもする。


 唇にする場合は侍女達が側にいない時に限られるが、それでも誰が見るかわからない場所でキスをするのは恥ずかしい。だが同時に言い表せない幸福感にも包まれる。


 夜に会えば抱きしめて甘やかされたり、もう少し深いキスをすることもあった。ヘルマンはどこか性急ながら、ルーテシアに触れることに躊躇いがなくなったようだった。


 ルーテシアはヘルマンの行動の意味を深く考えないようにしている。うぬぼれてしまえばいいのだが、肝心なところには触れられないままだ。それはヘルマンも同じで、あの日以来深い話はしていなかった。


 ある夜。早く帰宅したヘルマンはルーテシアとリビングで寛いでいる。もはや並んで座るのはいつものことで、身体を預けるルーテシアの髪の毛にヘルマンが指を入れて梳く。


「今日はどんな本を読んでいたのですか?」


 ヘルマンはテーブルに置かれたままの本を見ながら尋ねた。


「アルビリオン王立管弦楽団の活動記録です」

「へえ。そんな本が存在するのですね」

「記録は残しておくものですよ。後々役に立ちます」


 ルーテシアは甘えたような口調でゆったりと説明する。


「現在は活動が落ち着いてしまっていますが、約100年前にはプルガトルに公演に行くほど人気があったとか。流行にも波がありますから、またそのうち人気が出るかもしれませんね」

「人気が落ち着いてしまっているのは、王族に音楽を好む人間がいないことも理由にあるかもしれません」

「ええ。どちらかというと、好んでいらっしゃるのは踊りの方だとか」

「王立管弦楽団は踊りのための引き立て役になっていますね。私も見たことがありますが」

「どうでしたか?」

「仕事の最中でしたのでじっくりとは見ていませんが、優雅だとは思いましたね。あれは相当鍛えた身体でした」

「ふぅん」


 ダラダラと会話を続けながら、ルーテシアは少し口を尖らせた。


「ヘルマン様は踊り手さんのような、引き締まった身体の女性がお好きなのですね」

「そうは言っていませんよ。私も訓練をしていますから、そういった面で目を引いただけです」

「……そうですか」

「ルーテシア」


 不満そうな表情のルーテシアの顎を取り、上を向かせる。そのままヘルマンはルーテシアの唇を自分の唇で塞いでしまう。


「……気になりますか?」


 少しだけ唇が離れた隙に、低い声でヘルマンが聞く。ルーテシアはすべてヘルマンのペースで進むことが嫌だった。今までだったらしなかったような口答えをする。


「……いいえ、別に」

「そうですか」


 そうしてまたヘルマンに唇を塞がれてしまう。二人は精神的にある一定の線をギリギリ保ち、それを踏み越えないような微妙な関係を続けていた。


 長いキスの後、再び元の体勢に戻った二人は会話を再開する。


「そういえばルーテシア。仕事は楽しいですか?」

「急にどうしたんですか?」

「ちょっと聞いてみたくなっただけです」


 ルーテシアは突然の話題転換についていけないが、ヘルマンの手を握りながら答えた。


「楽しいですよ。本に囲まれて暮らすことが、私の一番の望みです」


 半分は強がりだ。しかしヘルマンには強がっておきたい。そうすることで、自分をも欺いていく。


「……そうですか」


 ヘルマンは表情を曇らせるが、ルーテシアにその理由はわからない。


「もし、王立図書館がなくなるとしたらどうしますか?」

「なくなるのですか!?」


 騎士であるヘルマンなら自分の知りえないことを知っている可能性がある。そう思って、真実なのかと聞き返す。


「いえ、すみません。仮の話です」

「冗談でもそんなこと言わないでください。絶対に嫌です」


 ルーテシアは怒って、ヘルマンから身を離した。そんなルーテシアをヘルマンは抱きしめて引き戻す。


「すみません、ルーテシア。冗談が過ぎました」

「……いいですよ、許します」


 一瞬本気で腹が立ったが、ヘルマンの殊勝な態度を見たらすぐに気持ちが落ち着いた。ヘルマンはホッと息を吐いてルーテシアの頭に自分の顔を埋める。


「そうですね、嫌ですよね……」

「ヘルマン様?」


 どこか苦しそうな口調に聞こえて、ルーテシアはヘルマンの方へと顔を向けた。


「ヘルマン様、怒りましたか? 私、もう本当に怒っていませんよ」


 ルーテシアは自分が怒ってしまったことをヘルマンが悲しんでいるのではと考える。ヘルマンは心配そうに自分を見つめるルーテシアの額にキスをした。


「いいえ、怒っていませんよ。そんなことを聞いた私が悪かったです」

「でも……なんだか辛そうです」

「それじゃあ、慰めてくれますか?」

「えっと……」


 突然の頼みに戸惑いながら、ルーテシアはヘルマンの頭をよしよしと撫でる。ヘルマンはルーテシアを抱きしめて、身体を預けた。


「大きい子供みたいです、ヘルマン様」

「ちゃんと育ててくださいね」

「まあ、ヘルマン様ったらそんな冗談もおっしゃるのですね」


 ルーテシアはくすくすと笑う。そのままルーテシアはしばらくヘルマンの頭を撫で続けていた。

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