28

「本当に大丈夫ですか?」

「ええ、すみません。ご迷惑をおかけして」


 ルーテシアとエクレールはゲストハウスの控室で休んでいる。ルーテシアはソファに深く座り目元にタオルを当てて冷やす。その横でエクレールが心配そうな顔をしていた。


 断りを入れて退席してから長く時間が経っても戻らなかったので、エクレールが様子を見に来た。ルーテシアもいつまでも隠れているわけにもいかなかったので出てきたが、泣いてしまった目が赤く腫れている。


 誤魔化すために、咄嗟に「ちょっと具合が悪くて」と言い訳をすると、それを信じたエクレールによって控室に連れてこられたのだった。


「私のことはいいんです。むしろ、お加減が悪いことに気がつかず申し訳ありません」

「いえ……」


 嘘をついていることに申し訳なさを感じながら、ルーテシアは大丈夫だと主張するように笑顔を作る。一人で思い切り泣いて、少しだけ気持ちは落ち着いていた。


「普段こんなドレスを着て過ごすことがないので、疲れてしまったようです」

「そうですよね。私も実は少し疲れています」


 エクレールはルーテシアの手を取って励まし続けている。女性の友達が少ないルーテシアだが、エクレールの人の良さには純粋に心が温かくなった。


 そうして二人で話していると、廊下からバタバタという音が聞こえてくる。その勢いで慌ただしく扉が叩かれ、騎士服姿の二人が入ってきた。


「ルーテシア!」


 珍しく慌てた様子のヘルマンが入ってくる。エクレールは気を利かせてすっと立ち上がり、ルーテシアの側を譲った。


「大丈夫ですか!? 具合が悪いと聞きましたが」


 ヘルマンは迷わずルーテシアの側に跪いてその手を握る。ヘルマンとは顔を合わせずらかったが、心から心配してくれている様子を見てそんな気持ちがすっと消えていくのを感じた。


「ご心配おかけして申し訳ありません。少し疲れてしまっただけです」

「本当ですか? 目元が赤い……」


 人目もはばからず、ルーテシアのまぶたに触れる。具合が悪いのではなく、ただ泣いていただけと気がつかれてしまうのではないかと思ったが、ヘルマンはそうは思わなかったようだった。


「馬車を手配しました。今日は無理せず帰りましょう」

「ありがとうございます。では、私だけ先に……」

「いえ、私も一緒に帰ります」


 ヘルマンはきっぱりと言い切る。


「ですが、まだ会は……」

「家族のための懇親会ですから、問題ありません。ガリオ、ギルガム隊長とアルセフ小隊長にはよろしく伝えてくれ」


 一緒に部屋に入ってきたガリオに振り向いてそう頼んだ。ルーテシアはガリオの顔を見ると、先程のヘルマンの笑顔が蘇ってきて顔を曇らせた。


「わかりました。お気をつけて」


 ガリオはルーテシアを案じながらも、どこか嬉しそうな色を乗せた顔をして敬礼する。ヘルマンはルーテシアを支え、立ち上がった。


「歩けますか? 入り口まで抱えますよ」

「だ、大丈夫です! 恥ずかしいですから……」


 たくさんの人がいる中で抱きかかえられるなんて想像しただけで恥ずかしい。ルーテシアの身体は元気なので、問題ないと言って歩き出す。ヘルマンの支えもいらないと断ったが、それはできないとヘルマンはルーテシアの腰を支え続けている。


「すみません、エクレールさん、ガリオ様。また今度ゆっくりお話させてください」

「お大事になさってくださいね」


 心配そうな二人に見送られ、ヘルマンとルーテシアは部屋を出て入り口へと向かう。


「もっと早く気がつければよかったのですが」


 ヘルマンは悔しそうだ。


「いえ、ヘルマン様と別れてからのことでしたので」


 嘘をつかなくてはならないことに罪悪感を感じるが、同時にこんなに心配してくれることに胸がすく思いもする。


(もっと私のことを見てほしい。仲良くなれないのならせめて……)


 そんな風に思う自分自身をルーテシアはずるい女だと思った。


 入り口まで迎えに来ていた馬車に乗り込む。


「もたれかかっていいですよ」


 いつかのように、ヘルマンはそうルーテシアに言う。ルーテシアは一瞬だけ躊躇ってから、自分からヘルマンに身を寄せて目を閉じる。服から伝わるヘルマンの熱が愛おしくて苦しかった。



 屋敷に戻ると、ルーテシアは寝室で楽な服装に着替えた。一人きりになると、ソファにどっかりと座り虚空を見つめる。


「やっぱりダメなのかな……」


 そう一人ごちると、懇親会での辛さが蘇ってきた。ガリオと話す気さくなヘルマンの様子、そして笑顔──


 自分とヘルマンとの距離を改めて認識させられた。もしかしたら妻として愛してもらえるかもしれない、と思った時もあったが、今はそんな気持ちは消え去っている。


 数ヶ月間、ヘルマンに近づき、親しくなって笑ってもらおうとルーテシアなりに精一杯努力してきた。その努力も無残に打ち砕かれ、残ったのは虚しさと苦しい恋心だけだ。


「好きにならなければよかったのかもしれない」


 世間体のためだけに結婚した愛も会話もない夫婦。そのままでいられたならば、こんな苦しみを味わうこともなかった。これから長い時間夫婦として過ごすに当たり、ずっとこの気持ちを抱え続けなければならないのかと思うと、気が遠くなりそうだ。


 暗い気持ちでいたので、コンコン、と控えめに扉がノックされた音にも即座に反応できない。ぼんやりと扉に視線を移すと、静かに扉が開いてヘルマンが顔を出した。


「ルーテシア」


 ヘルマンはソファに座るルーテシアを見ると眉間に皺を寄せて部屋に入ってくる。手には水差しとコップが乗ったトレーを持っていた。


「調子が悪いのですから寝ていなければ。顔色もそんなに悪いのに」

「…………」


 変に落ち着いた気持ちでヘルマンを見る。愛情もないのにこんなに心配するような様子を見せるなんて、義理堅い人だと冷めた気持ちになった。


 いっそのこと突き放してくれた方が楽なのに。そんなことを思いながらヘルマンの優しさに触れるとやり場のない怒りだけが溜まる。


「私のことは気になさらないでください。大丈夫ですから」


 ルーテシアが突き放すように言うと、ヘルマンはより険しい顔をする。


「そんなことできるはずもないでしょう」


 どこか怒ったような口調でピシャリと言い、ルーテシアに手を差し伸べた。


「ほら、ベッドに行きますよ。少し眠った方がいい」

「眠たくなんてありません」

「眠たくなくても横になるだけでも楽になります」

「結構です」

「……ルーテシア」


 拗ねた子供のように嫌だ嫌だと繰り返すルーテシアに困惑の表情を浮かべる。ヘルマンは差し出した手を引っ込めてルーテシアの隣に座った。


「それならここで眠りますか? 膝を貸しますよ」


 ヘルマンはそう言って自分の太ももを指す。どこまでも優しいヘルマンに、ルーテシアは胸が苦しくて顔を歪めた。


「もう私のことなんて放っておいてください、ヘルマン様」

「なんでそんなことを……」


 ルーテシアの態度の急変にヘルマンは困惑するばかりだ。ルーテシアも子供のように駄々をこねる自分を情けないと思う。だが心は疲弊していて、取り繕う元気もない。


「何を言っても出ていきませんよ、私は。ルーテシアの調子がよくなるまでは」

「もう治りました」

「そんなひどい顔色で言われても説得力がありません」


 ヘルマンは引き下がらない。


「どうかしたのですか? ルーテシア。何かあるのなら言ってください」

「何か……」


 ルーテシアは唇を噛んだ。こんなに心配してくれているのに、腹が立って仕方のない自分を制御することができない。


「もう本当に大丈夫ですから。ヘルマン様もこんな気の使わなくてはならない私のことなんて置いて、どこへでも行ってください」


 そう口にしてから即座に後悔する。なぜ自分は望みもしない、可愛げのないことを言ってしまうのか。


 落ち着いていた涙がまた浮かんできてしまいそうだ。ルーテシアはヘルマンを見ることもできず、俯いた。


「ルーテシア、そんなことを言わないでください」


 ヘルマンはルーテシアの頬に手を添えて、優しく上を向かせる。今にも泣きそうなルーテシアと目が合う。


「どうしてそんな風に思うのですか。私が何か……」


 すっかり困惑したヘルマンの表情が陰る。ルーテシアはギュッと目を閉じて首を振った。


「私なんかといても疲れるだけでしょう」

「そんなことありません」

「嘘です! だって、私にはいつも気を使っていますよね? 私にだって、ガリオ様にするような口調で話してくださればいいのに!」


 ルーテシアの感情がついに弾ける。泣きそうな声で怒鳴るように言う。


「あれは気を使わないとかそういう類のものではなく、男の後輩なのでそういうものでしょう。ルーテシアは女性なのですからあんな風には……」

「本当ですか!? 口調だけじゃなく、どこか肩の力が抜けているように感じました。私にはあんな表情はしてくださらない!」


 とうとうルーテシアの瞳から涙が零れ出る。こんなの八つ当たりだ。自分が情けなくてどうしようもなかった。


「私といることがそんなに苦痛なら……」

「それはルーテシアの方ではないのですか?」

「……え?」


 悲しげな瞳を向けられて、ルーテシアはガツンと頭を殴られたかのような衝撃を受ける。


「口調はもちろん、何か悩んでいても私には言ってくれない。頼りがいがないのかもしれませんが、もう少し頼ってくれてもいいのにと思ってしまいます」


 ヘルマンの気持ちについて思い悩んでいた時、直接尋ねられたことを思い出した。その質問には答えることができなかった。思えば、その時から二人の間の見えない壁がくっきりと立ちはだかってしまった気がする。


「言えません、そんなこと……」


 「私のことが好きですか?」なんて、聞いたらより傷つくだけだ。それだけはどうしても聞けないと拒否すると、ヘルマンの顔が歪んだ。


「……そうですか」


 冷たい声でそう言われて、ルーテシアの身体も冷える。終わってしまった。もうルーテシアの望むような結婚生活は送ることができない。


 新たな涙がルーテシアの頬を伝う。それをヘルマンがルーテシアの頬に添えた手で拭った。


「それでもここにいさせてください。ルーテシアが心配で、他のことなど手につきそうにありません」


 もう終わってしまった、というルーテシアの予想に反して、ヘルマンは掠れた声で懇願するように言う。ルーテシアは涙をいっぱいに溜めて、ヘルマンのことを見る。


 ヘルマンのことがわからない。もうダメかもしれないと思うのに、既のところで掴まれる。


「それじゃあ、ずっと一緒にいてください」


 ルーテシアは静かにそう頼んだ。それは今だけではない、未来への願いも込めて。


 それをどうヘルマンが捉えたのかはわからないが、ヘルマンはルーテシアの頬を撫でながら頷く。


「はい、もちろんです。嫌だと言っても離れません」


 静かにそう言うと、ヘルマンの顔が近づく。ルーテシアも合わせてゆっくりと目を閉じると、ヘルマンの熱い唇が自分の唇と触れた。


 その言葉が未来のことも含めた言葉だったらいいのに。そう願いながら、しばらくそうして涙の味がするキスを続けたのだった。

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