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 ヘルマンの小さな冗談に怒ってしまった翌日の朝も、いつものように仕事へ行くルーテシアを見送りに起きてくる。律儀なことに「昨日はすみませんでした」と、改めて謝った。


 ルーテシアの怒りはもうとっくに収まっていたし、そんなに申し訳なさそうにされると自分が悪いような気がしてくる。


「大丈夫ですよ。気になさらないでください」


 気が楽になるように努めて笑顔で言うが、表情があまり変わらないヘルマンが本当に納得してくれたかどうかはわからなかった。


(ヘルマン様、少し変だったかもしれない)


 仕事へ行くために馬車へ乗り込んでからルーテシアはそう振り返る。「もし王立図書館がなくなったら」なんて、らしくない冗談を言って、それを後悔しているかのように何度も謝る。


(ヘルマン様のことがわからない……)


 一緒に住んでいるのだからと交流を持ち始めてからしばらく経った。結婚当初に比べたらヘルマンのことをたくさん知ることができたと思う。


 剣術に長けていること、料理や本が好きなこと、淹れた紅茶がとても美味しいこと、食事中には喋らないこと、とても優しいこと。しかしそれと同時にわからないことも増えてしまった。


 心を開いてくれているように思うのに笑ってはくれない。同僚や上官の前では笑うというのに。好きでないならいっそ冷たくしてくれればと思うのに、接する態度は優しく、時に甘い。


 そして昨日のように突然冗談を言ったと思えば苦しそうに謝ってくる。心の底で何を考えているのかどうしてもわからない。


(でもそれは私も同じね)


 ヘルマンへの気持ちが大きくなりすぎて失うことが怖くなってしまった。想いを悟られないように隠そうとするあまり肝心なことは言えない。気持ちが変に暴走してヒステリックになってしまったこともあった。


 それなのにヘルマンと接していたくてたまらない。ルーテシアは核心には触れずに逃げている。それをヘルマンも許容し、甘やかしてくれるものだから奇妙な関係になってしまった。


(あまり考えるのはやめましょう)


 ルーテシアは首を振る。仕事前に暗い気持ちになってはいけない。それが逃げだとしても、今はまだ。


(ヘルマン様に私が気にしていないっていうことを正確に伝えられたらいいのだけど)


 出かける前のヘルマンのどこか悲しい謝罪を思い出しながら頭を捻る。ヘルマンにこれ以上謝ってほしくなかった。


(そうだわ)


 ルーテシアはあることを思い出す。懇親会の前にヘルマンから紫の花の髪飾りを贈られた時のことだ。


 あの時ルーテシアはもらってばかりでは申し訳ないと言うと、ヘルマンがおすすめの本を教えてほしいとお願いされた。懇親会のゴタゴタで頭から抜け落ちてしまっていたけれど、今こそそのタイミングなのではないかと思う。


(歴史小説以外の本がいいって言っていたわね)


 ルーテシアは頭の中にある膨大な本のタイトルを思い浮かべて何をおすすめするべきかと考える。考え始めるとヘルマンとの関係性の悩みが一時的に消えて集中できた。ルーテシアはいつも本のことには夢中になれるのだ。



 仕事の合間にも考えて、ルーテシアは帰りに本屋へ寄って何冊か本を購入して帰宅した。いつもよりそわそわとしながらヘルマンの帰りを待つ。


(喜んでくれるといいけれど……)


 買ってきた本に目を通しているとあっという間に本の世界へと誘われる。そうしている内にヘルマンが帰宅した。


「おかえりなさい、ヘルマン様!」

「ただいま戻りました」


 ヘルマンは真っ直ぐルーテシアのところへ歩いてくると、柔らかな髪の毛を撫でるように避けて額にキスを落とす。こうして触れ合う機会は増えたのに、ルーテシアは頬を淡く染めた。


 いつものように連れ立って食堂へ行ってヘルマンが夕食を取る。食べ終わると二人でリビングへと移動した。そこでヘルマンは机の上に積まれた本に気がつく。


「今日はまたたくさん借りてきたんですね」

「あ、違うんです」


 ルーテシアは重い本を抱えるとヘルマンへと差し出す。ヘルマンは反射的に受け取ってから首を傾げる。


「あの、先日の髪飾りのお礼です」

「ああ……」


 ヘルマンも髪飾りを贈った時のやり取りを思い出したようだ。


「本当にルーテシアは律儀ですね。ありがとうございます」


 お礼を言ってヘルマンは本を机の上にそっと置く。そして1冊1冊丁寧に手にとって表紙を眺める。


「今回は4冊選んでみました。ヘルマン様は物語がお好きなようですので、1冊目は人気の競技を題材にした仲間の絆を描いた物語です」

「この競技は私も知っています。球技ですよね」

「はい。昔からある競技ですが、最近一部の王族の間で流行が再燃しているとの噂を聞きまして。王族の警護を担当するヘルマン様なら知っていて損はないかと」

「そこまで考えてくれたのですね。小説ならルールも構えずに知ることができそうです」


 ヘルマンは頷いて1冊目の本を机の上に置く。2冊目の本もルーテシアは解説を続ける。


「2冊目は昔から馴染みのある童話を現代風にアレンジした物語です。シリーズ化していて、最近世間からも注目され始めたところです。流行りに乗っていくのも悪くはないかと思って選びました」


「3冊目は動物との穏やかな生活を描いた物語です。物語の起伏はありませんが、それこそがこの本の魅力だと思います。癒やされたい時にぜひ読んでみてください」


「最後の4冊目は歴史書を選んでみました。ヘルマン様は歴史小説をよくお読みになっていますので、有識者の記した歴史書を読むことでどういうところにフィクションを混ぜているのかがわかって、物語をより楽しむことができると思うのです」


 4冊目の解説まで終わってヘルマンは本を机に置いてルーテシアに向き直る。


「ありがとうございます、ルーテシア。どれも魅力的で、私の読んだことのない本ばかりです。それに私のことを考えて選んでくれたことがわかってとても嬉しいです」

「喜んでくださってよかったです」


 ヘルマンが本当に喜んでくれたのが伝わってきて、先程まで饒舌に語っていたルーテシアは照れたように身を竦めた。そんなルーテシアの腰をヘルマンは自分の方へと引き寄せる。


「この本のお礼は後日必ず」

「まあ。これは先日の髪飾りのお礼ですのに」

「前にも言いましたが髪飾りは素敵な帽子のお礼ですよ」

「あの帽子はヘルマン様がプルガトルで買ってきてくれた本のお礼です」


 そう言い合ってルーテシアはくすりと笑いを零す。


「これではいつまで経ってもお礼が終わりませんね」


 そう言いながらなんて幸せなんだろうと思う。帽子や今日の本だって選ぶ時はとても楽しかった。ヘルマンのことを考えながら、どうしたら喜んでくれるかと頭を悩ませることが自分の幸福にもなる。


 笑いながらヘルマンの胸へ顔を寄せたが、その顔がふっと曇った。幸せを感じると同時に不安も襲ってくる。笑ってくれないヘルマンの本心がわからなくて。


 ルーテシアはすがるようにヘルマンの手を握りしめる。感情に身を任せて幸福を感じていたいのに、そうできない自分がただ苦しかった。

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