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ルーテシアが決意した日の夜。ヘルマンが帰宅し食堂へ入ると、いるはずのないルーテシアの姿があって一瞬だけ動きが止まった。
ルーテシアはヘルマンがいつも座る席の向かいに座り、何やら分厚い本を広げて顔を突っ込むようにして読みふけっている。ヘルマンは小さく息を吐いてから、本に夢中になっているルーテシアの前へと歩いていく。
「待たなくていいと言ってあったはずですが」
「……? あ!」
ヘルマンの帰宅を待っている間、暇だからと王立図書館から借りてきた本を読みふけっていたルーテシアは、声をかけられたことでようやくヘルマンの存在に気がついた。本を読んでいる間のルーテシアの集中力は凄まじいものがある。
慌てて立ち上がったルーテシアはまず挨拶をした。
「おかえりなさいませ、ヘルマン様」
「…………」
ヘルマンは何も答えないままただルーテシアを見る。ルーテシアはそこで先程問いかけられていたことを思い出した。
「あ、えっと、たまにはお食事を一緒にしたいな、と思いまして」
無表情のヘルマンを前に、覚悟を決めてここにいたはずのルーテシアの自信がしぼむ。ヘルマンは無表情であるが故に、怒っているように感じる。
二人がしっかりと顔を合わせるのは結婚式ぶりのことだ。世間体のために結婚したドライな生活。こうして相手の生活に踏み込むことをヘルマンはよく思わないだろうと、ルーテシアはわかっていた。
ただ同じ気持ちで結婚したはずのルーテシアが虚しさを感じていたのもまた事実。ここで引き下がっては、またモヤモヤとしたまま日々を過ごすことになる。
その上いつまで経ってもヘルマンの笑った顔など見れないだろう。そんなことは嫌だ、と歯を食いしばって改めてお伺いを立てた。
「もしよかったら夕食をご一緒しても構いませんでしょうか?」
ヘルマンの紫の瞳は静かにルーテシアを捉え続けている。ルーテシアがどれだけ見ても、ヘルマンの胸の内はわからない。
「もうこんな遅い時間です。そんなに長く待っているなど……」
瞳と同じように静かな口調でそう言ったヘルマンは、言葉を途中で切って首を振る。確かに、今は日付が変わりそうな時刻だ。そんなに遅くまで起きているなんて呆れられてしまったかと、ルーテシアは焦った。
「だ、大丈夫です! 実を言いますと、夕食はほとんど済ませてしまっていました。流石にお腹が空きまして……。ですが、デザートは残しておりますので、それだけでもご一緒できたら、と……」
ルーテシアはもごもごと言い訳をして俯く。ヘルマンと会話をしたいという気持ちから辛うじてここに立っているけれど、そんなルーテシアの勇気も折れてしまいそうだ。
普段、仕事で男性と接する機会はあるが、こんなに体格のいい騎士はほとんど図書館に訪れない。しかも相手は無表情を崩さないヘルマン。そんなヘルマンとずっと向き合っていると、怯えの気持ちがルーテシアに生まれていた。
「……わかりました」
ヘルマンが承諾の言葉を口にしたことで、ルーテシアはパッと顔を上げる。
「ですが、今後は待っていなくて構いません。このように遅くなることが多いですから」
「は、はい……。いや、いいえ」
ルーテシアは一度うなずきかけて、勇気を出してそれを拒否した。
「私達は夫婦になったのですから、たまには会話をしたいのです。毎日は難しいかもしれませんが、時折こうして食事をご一緒しても構いませんか?」
「…………」
ヘルマンは黙ったままルーテシアを見る。二人は身長差が30センチほどあり、表情も相まって怒って見下されているように感じた。二人の身長差は、例えルーテシアが高いヒールの靴を履いても、ヘルマンと並ぶことはできそうにない。
「……それについては後ほど考えましょう。明日も仕事でしょう? 今夜はとりあえず食事をして早く休んだほうがいい」
「……はい」
ヘルマンに促されて二人は向かい合って席に着く。ルーテシアはヘルマンの言葉が自分を心配してのことなのか、それとも妻となったルーテシアが仕事で失敗をするとヘルマンの評判が悪くなるからなのか、ただ単に迷惑だからか。どういう意図で口にした言葉なのかすらまだわからなかった。
二人は無言で食事を始める。こうして二人きりで食事をするのは、結婚してから初めてのことだった。
「そもそも」
一旦フォークを置いて、ヘルマンが口を開く。
「私は食事中に話はしない人間です。一緒に食事をしても、貴女の求める会話はできないと思います」
そう言い放ったヘルマンは再びフォークを手にして食事を再開する。明白な拒否に感じる言葉に一瞬固まったが、ルーテシアの表情はみるみる内に綻んでいく。ヘルマンの言葉に喜びを覚えていた。
(ヘルマン様は食事中に話をしたくない、と)
ルーテシアの頭の中にある『ヘルマン様メモ』に新たな項目が加わった瞬間だ。今までは人づてに聞いた知識しかなかったものが、こうして会話をすることで知識を得ることができた。それがルーテシアにとっては喜びだったのだ。
(伯爵家の方ですもの、きっと我が家よりも厳しい教育がなされてきたのだわ)
ヘルマンは綺麗な所作で食事を進めている。食事中に喋ってはならないと、厳しく言いつけられていても不思議はないと思った。
ヘルマンのことを知ることができて嬉しいルーテシアはその勢いのままデザートのケーキを食べ終える。
「それでは私が一方的にお話をさせていただきますね」
嬉しそうに言うルーテシアをヘルマンは不審な表情で見た。ヘルマンはてっきりルーテシアがこれに懲りて自分に興味を持つことはやめるだろうと思っていたのだ。
「食事中ですもの、ヘルマン様に何かお返事を求めることはいたしません。ですが、ヘルマン様にも私のことを知っていただきたいですから」
それに、とルーテシアは思う。もし自分がおもしろおかしい話をできたなら、ヘルマンが笑ってくれるかもしれない。どんな顔で笑うのだろう。ヘルマンと少し会話をして、笑顔への興味は増すばかりだった。
「今日は、そうですね。まずは私の基本情報についてお話させていただきますね」
ルーテシアがヘルマンのことを知らないのと同じように、ヘルマンもルーテシアのことを知らないはずだ。まずはお互いのことを知ることから。そうでないと気を許して笑ってはくれないだろうと思っての話題選びだった。
「私はアルビリオン王立図書館で働いております。ヘルマン様が図書館にいらっしゃったことがあるかはわかりませんので、まずは図書館の説明をさせていただきますね。
アルビリオン王立図書館は主に専門書を取り揃えております。歴史書、魔法書、薬学書、医学書など……。来館される方もそういった専門職に就いている方が多いです。特に多いのは王城で働く文官や医師などですね。そういった方々に本を貸し出したり、お探しの本の場所を聞かれましたら、その場所へご案内したり本を取ってきて差し上げるのが私達司書の仕事の1つです」
ヘルマンは聞いているのか聞いていないのかわからない。淡々とナイフフォークと口を動かしているだけだ。しかし変に楽観的なルーテシアは、耳があるのだから聞こえているはずだ、と構わず話を続ける。
「他には、新しい本が入ってきましたらそれを帳簿に記載し、本棚に入れること。蔵書が傷んでいたらそれを修復したりすることも仕事のうちです。そういった本に関わる仕事なので、自然と私も内容に興味が湧いて、専門書を借りて読んだりもしています。内容がわかっていた方が案内もしやすいですし。ちなみに、先程まで読んでいた本は建築の専門書でした」
ルーテシアはテーブルの上に置いた分厚い本の表紙を撫でた。食卓に本を置くなどマナー違反甚だしいが、ルーテシアにとってこれは日常だ。
両親は何度も注意したが、直らない。「絶対に汚さない自信があるから」と言い張るのだ。そしてその自信の通り、ルーテシアは食卓に置いた一度も本を汚したことがなかった。
「この本には王城が作られた時の建築工程が書かれています。もちろん、私は詳しいことはさっぱりわかりません。ですが、これを読んでいると見慣れたエントランスや図書館までも、職人が苦労して作ったんだということが察せられて、とても興味深いのです」
食事中のヘルマンがちらりと本に視線を送ったことに、話に夢中になっているルーテシアは気がつかない。もちろん、自分の話をするつもりだったところが、自分の興味のある分野について語り始めていることにも気がついていなかった。
「王城はとても広いですから、この本はほんの一部です。図書館に行けば全工程を記した本が保管されています。それはもちろん修理の度に記録として増えていきますので……」
そうしてルーテシアはヘルマンの食事の間、王城の建築についての見聞を語った。ヘルマンに反応がないことも、ルーテシアにとっては逆に嬉しいくらいだ。実家ではルーテシアがこういった専門的な話をしても、聞いてくれないどころか無視されてルーテシア抜きで別の話が始まったりするからだった。
ルーテシアの口が止まったのは、ヘルマンが食事を終え、ナプキンで口を拭いているのに気がついた時のことだ。
「あ、お食事終わりましたか」
「……はい」
ヘルマンは数十分ぶりに口を開いた。
「それでは。貴女も早く休みなさい」
ヘルマンは今までルーテシアが語っていたことに対してはなんの感想も言うことはなく、さっさと立ち上がって退席する。ルーテシアはしばし呆然とヘルマンが消えていった扉を見つめていたが、我に返ると自分も立ち上がった。
「私も寝ましょう」
ルーテシアの表情には悲観は一切浮かんでいない。ルーテシアのポジティブさは、彼女を知るものなら有名な話であった。
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