あとがき
いよいよ腕を動かすのもおっくうになってしまった。たかがペン一本すら妙に重く感じられ、こうして文を書くのも難儀である。
テレビやラジオの音はうるさくてつける気になれず、病室内には点滴の垂れ落ちる音がメトロノームのように響く。もはや昼夜の感覚も危うい。病室の電灯が点いたら朝、消されたら夜といったところである。
実にわたしらしい最期と言えよう。死に場所が離れから病室に変わっただけで、どの道、こんな風にひとりで死んでいたのだろう。予想はついていたのだから、恐ろしさはない。ただ、胸の中身がごっそり失われてしまったような、奇妙な軽さ、喪失感だけがある。
悔やむことがあるとすれば、彼女のことだ。ああ――名前が思い出せない。せっかくつけた仮の名も、いったいどういうものであったか。ノートを読み返せばわかるのだろうが、看護師が片付けてしまったのか、彼女のことを書いた分が見つからない。
彼女は今どうしているだろう。あの世界――トロイメライで幸せに暮らしているといいのだが。あれで今生の別れになってしまうのだったら、せめて彼女を祝福したかった。あれでは傷つけるだけ傷つけて逃げ出したようなものだ。後悔ばかりが滲み、疼痛とともにわたしの身をずきずき痛ませる。願わくば、彼女がわたしのことを忘れて楽しい日々を送っていると良いのだが。もう誰にも責め苛まれたり恐れられず、憂いなく過ごしてさえいてくれれば。
ああ、でも……もしももう一つ、願うことができたなら。もう一度だけ、彼女の笑顔が見られたら。
……やめよう。あまりにも空しい。
意識が遠のいてきた。続きは一眠りしてから書こう。
物音がして目を覚ました。多分看護師がわたしに繋がっている管のたぐいを管理するために来たのだろうと思った。どうせ早かれ遅かれ死ぬ身であるのに、点滴が上手く落ちていないだとかどこかの管が抜けているだとか、看護師たちはひどく神経質に器械の具合を確認するのだ。仕方のないことにしても、寝入ってる最中に物音や身体をまさぐられる感触で目を覚ますのはちっとも良い気分ではない。だからわたしは目をつぶり、寝入っているふりを続けた。
「ねえ……」
声。看護師にしては幼い、舌足らずな喋り方だった。聞き覚えがあるような気がするのだが、誰であったか……眠気に勝てず、まぶたを開けられないわたしに、再度声がかかる。
「ねえ、おじさん。おじさんってば……」
声は次第に激しくなり、次第にわたしを揺さぶるようになった。なんだなんだ、いったいどうした!? さすがにたまらず、目を開ける。
そこには。
「 」
ああ、そうだった。きみは確か、こんな名前をしていた。やっと思い出すことができた。きみは笑顔と一緒にひどく難しい顔を浮かべて、わたしの前に立っている。
いったいどうして? もう、戻ってこないつもりだったろう?
「迎えに来たの」
きみははにかむ。
「やっぱり、おじさんといっしょにいられるほうがいいから」
困ったな。見ての通り、今ぼくはこんな状態なんだ。車椅子に乗せてもらわないと外に出ることもできないんだよ。
「おじさん、死んじゃうの?」
多分ね。でも、他の人より少し早いだけさ。
「こっちに来たら、きっと大丈夫だよ。あたしの魔法なら……」
それはいけないよ。だって、見ただろう? ぼくの中を。もしも元気になっても、ぼくは……きっときみを……。
「だって、あたしおじさんに何もできてないんだもん。いっぱい、いろんなことしてもらったのに。おじさんはずっと、あたしに優しいままでいてくれてたのに」
そんなこと言わなくていいんだ。ぼくも、きみから素敵なものをたくさんもらったんだよ。きみに会えて、いっしょにいられて、それだけがぼくの暮らしの中でどれだけ幸せなことだったか。だから……これ以上はいいんだ。きみが幸せでいてくれるのなら、それだけでいっぱいなんだよ。
「……おじさん、あのね」
きみはひどく真剣な顔をする。
「あたし知ってるよ。どういうことをするのか。やったことないから、ちゃんとできるかわからないけど……でも、あたし、おじさんになら」
「 」
名前を呼んで、きみの言葉を遮る。
お話がやっとできたんだ。向こうに帰るとき、持っていってくれないか。
「……でも」
それがぼくの、きみへのお願いだよ。きみはきっと幸せになれるから、そう祈っているから。だから悲しいこと、寂しいことは全部こっちに置いていって、忘れていいんだ。きみはもっと素敵なことと出会えるんだから。
「おじさん」
「 、行っておいで。そして、どうか笑って」
「……わかった」
きみは袖でぐしゃぐしゃだった顔を拭って、可愛らしい笑顔を浮かべた。ああ、良かった。胸のつかえが少し取れた気がした。
お話が書かれたノートを抱え、きみはスミレの香りを振りまきながらふわ、と宙に浮かんだ。きらきらと暖かい光がきみを包み込む。
「じゃあね、おじさん。あたし、おじさんのこと大好きだよ」
ああ――ぼくも、きみのことが大好きだよ。
だから、どうか元気で。
刹那、夕日のような光が病室を染めた。眩しさに瞬きしていると、いつの間にかスミレの香りは霞み、きみは再びいなくなった。
元通り、点滴の音しかしない病室。けれど、もう寂しくはない。
わたしはもう一度目を閉じようとして、このまま眠ってしまうとまたきみのことを忘れてしまうと思い至った。寝るのはこれを書き終わってからにしよう、とどうにかペンとノートを手繰り寄せた次第である。
ちょうどこれでこのノートもいっぱいになった。わたしの話も、これでおしまいにしよう。めでたしめでたしかはわからないが、わたしにとっては彼女の幸せこそが一番の
さて、今日は少し疲れてしまった。看護師が来るまでもう少し寝ていよう。今ならきっと、良い心地の夢が見られそうだ。
おやすみなさい。これを読んだあなたも、良い夢が見られますように。
泥の中よりメルヘンを 古月むじな @riku_ten
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