間話:獣の詩

 あれはであったと思う。

 赤々と燃える黒き夜の森で、僕はそう考えた。

 

 強烈に眩い炎の光に視界を焼かれながら、自分の体を見下ろす。

 あちこちが擦り切れ、血と煤が混じったさび色の汚れで彩られている。

 

 疲れ果て、古い布切れの様に穴の空いた体。

 鉛の様に重い足を引きずりながら、僕は歩く。


 視界の端に死体が映る。

 元は恐ろしい程に均整のとれていた彼の顔。

 年齢に似つかわしくない程、人懐こく情熱に燃えていた眼。

 ゴツゴツと骨ばっていて、それでも美しいと思えた傷だらけの手。

 その志は尊く、きっといつの日か、その手に夢を掴んでくれると信じていた。


 今では彼の全ては酷く焼け、微かに残るその表情はおぞましく絶望に染まっていた。

 瞳は海の底の様に暗く、手は夕焼け雲の様に赤と白が混ざり合っている。

 仰向けに寝転んだ彼の体は冷たい。

 彼の寝床となった剥き出しの土に、大量の乾いた血がこびり付いている。

 丁度両肩から広がっているそれは、赤い翼の様にも見えた。

 

 神は死んだ。

 友人の死を目の前に、不遜にもそう考えた。


 崩れ落ち、質の悪い紙の様にざらついた心。

血と汗で湿った後ろ髪をひかれながら、僕は歩く。


 千歩か二千歩ほどは進んだだろうか。

 熱気に包まれた森を抜けると、見慣れた神殿の目の前にいた。


 その神殿は、砂岩のレンガで出来ている。

 触るとひんやりと冷たい。

 その温度と、泥で埋められた継ぎ目の感触。


 これだけはいつもと変わらないもので、ほんの少し、ほんの少しだけ、安らかな気持ちになれた。


 ザリザリと引きずる音を立てながら、僕は神殿の中に進む。

 普段なら、規則にうるさい彼らに叱られるところだ。

 だけれど、今夜は神殿に甲高い声が響くことはない。

 

 恐らく、あの獣と戦ったのだろう。

 そこら中に固まり切っていない血だまりと、ヒトのものではない臭いがこびりついている。

 通路は暗く、そこら中に残る死体と、死体の一部に何度も転びかけながら、必死に前を進む。


 通路に散らばる、いくつかの松明の光だけを頼りにして、僕は歩く。

 

 それからどれだけの時間が過ぎたのかわからない。

一瞬にも永遠にも感じられた。

 

 腕は怠く、稲穂の様に垂れ下がっている。

 今の自分を見れば、父や母はなんと仰るだろう。

 貴種として必要な優雅さを説くだろうか。

 それとも、労いの言葉をかけてくれるだろうか。

 そんな問いに、意味がないことくらい、分かっているのだが。



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 僕は扉の前に立っている。

 その四角い扉は大きく、僕の身長よりも頭三つ分程高い。

 横幅は僕が五人並んでもまだ足りないだろう。


 普段でも開けるのに苦労するその扉。

 体力的にも心情的にも、今日ほど重く感じたことはなかった。

 全体重を乗せ、なけなしの力を振り絞って、少しずつ体を滑り込ませる。


 扉の先は、わが国の宝物庫。

 神殿の最奥にあるこの場所は、幼いころの僕の逃げ場所だった。

 お抱え教師のつまらない授業や、口うるさい神官の眠くなる説法を、用足しと言って抜け出し、ここに来るのだ。


 だからここに何があるのか、大半を記憶していた。


 先代王の碑文。

 これを使って、文字を覚えた。

 教師は厳しかったし、何度も授業を脱走したが、彼は根気強く教えてくれたことを覚えている。


 石灰岩で出来た裸婦像。幼いながらにいつも目のやり場に困り、周囲の大人によくからかわれた。

 そのたびにムキになり、いっそう激しくからかわれた。


 神とヒトのあり方を描いた大絵画。

 木炭や貝殻の粉末を染料にしたそれは、わが国有数の芸術家たちが数世代かけて築き上げた技術と情熱の結晶。

 僕は立場にふさわしくない位、控えめに言って敬虔ではなかったが、それでもこの絵には圧倒された。


 黒檀製の鎧。僕の先祖である初代王が、異郷の軍から国を護った際に身につけていた。

 それが元からあったものなのかわからない位に劣化の激しいそれを、父は一番気に入っていた様だった。


 数あるこの国の宝物。

 それらに彩られたこの部屋を、僕は愛していた。

 だからこそ、必死に、無様にも、ここに逃げ出したのだ。


 なのに、

 なのに、

 僕の黄金色の眼には、何も映らなかった。


 正確には、は映っている。


 薄暗いが、松明の明かりや、それの持ち主であろう衛兵の死体。

 他にも大量の血や、折れた剣、砕けて飛び出たであろう骨の欠片まで、目に入る。

 だが、視界に捉えられるのはそういった何かの残骸だけだった。


 残骸の一つを手に取る。

 それは滑らかな乳白色の石で、形だけ違うものがそこら中に散らばっていた。

 僕が少し後ずさると、靴底がザラザラとした何かを捉える。

 それは何かが焼け落ちた跡で、足を引いた場所だけ、砂岩の床が見えた。


 全てを奪われた。


 喧しい、髭を蓄えた神官も。

 数少ない、対等な友人も。

 厳しくも、誰より愛してくれた両親も。

 愛しくて、誰より守りたかった想い人も。


 全てが黒い炭か、白い灰になり果てた。

 

 全て獣に奪われた。

 領地も、領民も、尊厳も。


 僕は手に取った石の欠片を壁に叩きつける。

 哀れな小さな石ころは割れ、更に小さく侘しい姿に変わった。

 それを見届けると、僕はもう一つ、黒っぽい石を手にとる。


 投げつける。

 手に取る。

 投げつける。

 手に取る。

 投げつける。


 ただ無言で、残骸を残骸にし尽くした。


 その作業が百を超えた頃、僕は哭いた。


 ただひたすらに、声を張り上げる。

 意味のない狂声だけが神殿にこだまし続けた。


 涙は出なかった。

 それすらも、略奪され果てたのだから。


 目につく全てを壊しつくし、僕は中指につけた指輪をゆっくりと、丁寧に外す。


 自分は今、どんな顔をしているだろうか。

 きっと笑っているのだろう。

 耳にはけたたましい、常軌を逸した笑い声が響いているのだから。

 

 外した指輪を握りしめ、壁を見つめる。

 飾り気のない、そこらの商人ですら付けないような、灰色の石の指輪。

 薄くなった僕の手のひらは、固いそれに突き破られ、指輪を真っ赤に染める。

 

 最後に残った僕の宝物。

 これさえ砕けば、もう何も思い残すことはない。

 大事な思い出も、お気に入りの品々も、大切な人々も、で待っている。

 僕にはこれ以外、何も残っていないのだ。


 でも、それでも。


 これだけは、この指輪だけは、捨てられなかった。

 体のあちこちから血を流し、心は壊れ、記憶の理由が砕けても。

 愛したヒトの生きた証だけは、捨てられなかった。


 「誰か……」


 僕は跪き、両手を組んで、願う。


 「誰か……!」


 冷たい床と僕の脚とが重なり合う。

 焼かれた肌にその冷たさが刺さり、痛みを呼び起こす。

 まるで、僕の願いを糾弾するかの様に。


 「誰か……!!」


 それはひどく無様で、滑稽で、怠惰な有り様。

 それでも、真摯に、誠実に、熱意を込めて僕は願う。


 「誰か――助けて下さい!」


 ――チリン。

 と、音が鳴った。

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