7話:不寝番の前で、涙すること勿れ
波が岩壁に打ち付ける、弾みある音が聞こえる。
海が楽しそうに、じゃれついている様にも見えた。
緩やかな坂を上りながら、周囲に気を配る。
被っていた
向かい風に煽られ、体は少し重く感じる。
「こっちでいいのかい、お姉さン。漁港なンてなさそうだけどよ」
「仕方ないだろ。町から離れて、一度身を隠さないと」
船を探した私達だったが、すぐに浅はかだったと気づいた。
この島は、地面に生える尖った石と同じく、高低差が激しい。
低い、船が行き来できる様な場所は一つしかなく、そここそが私たちが逃げ出してきた場所なのだ。
この島は真横から見れば、直角をもつ三角形に見える事だろう。
「ただでさえ身を隠す場所が少ないんだ。低い所にいたらすぐ見つかっちゃうよ」
この場所に緑は少ない。
どこを見ても、あるのは茶色い土砂か、灰色の岩のどちらかばかりだ。
新大陸の東側は良い石が取れると聞いたことがあったが、もしかしたらここと似たような環境なのかもしれない。
風に乗って、土埃や小石が街の方へと流れていく。
「こンなとこじゃぁ、飯を探すのも苦労しそうだな」
「『飯』なんて言葉を出さないでくれよ。こっちはもう二日も食べてないんだよ」
船の上でしこたま吐いてから、そのまま誘拐され、食事も出されず拘留されていたから、腹が空いて仕方がない。
自身の胃液が体を蝕む、キリキリとした痛みに顔をしかめる。
初めて味わう、飢えの苦しみは、酷く惨めな気分になるモノだと知った。
ふと見下げた崖の下、
船上で見かけた、大きな魚が海面で跳ねる。
確か聞いたところによると、新大陸とこのあたりの島を、ぐるぐると回遊しているとか。
「……」
「やめとけお姉さン。いくらアンタらでもこの高さは無理だ」
眼下に見える、石造りの分厚く低い壁に覆われたあの街は、既に小さい。
私の手のひらにすっぽりと収まってしまう程だ。
入水の為に飛び降りれば、骨が折れる程度では済まないだろう。
そもそも、そんな体力があれば、泳いで対岸に渡った方が早い。
「なんで君は、そんなに平気そうなんだい」
「それは言えないな。謎がある方が、色っぽいだろ?」
いちいち癇に障る。
いっそ、コイツで腹を満たしてやろうか。
蛮族だって中々しない、禁忌の所業に手を染めるか、半ば真剣に考えてしまう。
目を細めて、少年をどう料理してやろうかと見つめてみるが、少年はどこ吹く風だ。
斜面を登り切り、開けた平地に出て少しして、何かの振動が靴底から伝わってきた。
「……なんだろ?」
「……ちょっと待ってな、お姉さン」
ジーグは肩に担いでいた銃を下ろし、地面へと立てる。
かと思うと、銃床で、足元の土を掘り返し始めた。
私には妙に手際が良い、その突然の行動の意味が分からない。
「何してるんだい……」
「だから待ってなって。……お、見っけた」
耕す様なその動きが、二十か三十を超えた辺りで、少年が声を上げた。
少年はすぐに、彼の作った、拳二つ分ほど窪んだすり鉢状の穴に手を突っ込む。
ジーグはその小さな握りこぶしを、こちらの顔の前に差し出した。
「食いモンだ、お姉さン!」
彼の手に収まりきらない位大きな、芋虫だった。
「~~っ!!」
私の肌が、叫び声をあげる様に立ち上がる。
芋虫は苦しそうに、全身を使って逃げ出そうと蠢いていた。
細長く、頭だけがその口に比例して肥大したその姿は、生理的な嫌悪感を湧き立たせる。
「ちょっ、なんてモノ見せるんだっ。早く離してあげなさいっ」
「腹空いてンだろ? お姉さン」
「食えと? これを食えって言うのかい君は!」
「故郷に似たような虫もいたけど、フツーにイケるぜ? ウチのは砂食ってたけど、コイツは石食って生きてンだろうな」
ここ最近では、虫食は珍しくない。特に南の方では昔から食べられていると聞く。
けれど、私のふるさとで食べ始められたのは、本当にここ最近の事だし、長く生きる私や私達にとっては、ゲテモノでしかない。
虫はひとしきり暴れて疲れたのか、彼の手の中でぐったりとしている。
その大きな口からは、粒状の灰色の物体が漏れている。
「焼いて煙立たせる訳にゃあいかンけど、多分こいつなら大丈夫。生でイケる」
「絶対に嘘だっ! なんか変なの吐いてるし!」
しかも、お尻から目に痛い、黄色の液体を零していた。
絶対に毒がある。
毒があろうがなかろうが、この際関係ないが。
「でもよぉお姉さン。そんな状態で、さっきみたいに鉄火場にあったらどうすンだよ。アンタらだって体力は無尽蔵じゃないだろ?」
「うぅ……」
「こいつがそうだとは限らンけど、故郷のは薬にされる位、力がでるぞ」
彼の言う通り、正直もう、歩くのも辛い。
度重なる魔術の行使と、修羅場の緊張、そして最後の全力疾走。
次もう一度同じことをやれと言われても、難しいだろう。
彼の眼は真摯だ。
本当に、私を心配してくれているのだろう。
お腹は減っていないようだが、彼だって体力を使っている。
その少ない体力を消費して、私の為に労を割いてくれたのだ。
「……くそっ。食べるよ、食べればいいんだろ!」
「よし、いけ」
「ま、待ってくれ! 近づけるのはやめて!」
彼に、しっかりと握って動かさないように頼む。
私は帯に差した
大したことではないのに、なぜか緊張してしまう。
一度唾をゴクリと飲み込んでから、腕を振り下ろす。
小刀は僅かな抵抗と共に、虫の頭とお尻を切り取った。
流石に、変なものを吐き出している所だけは無理だ。
虫は首を落とされた瞬間、ビクりと跳ね、彼の手の中でのたうち回った。
「ほらよ、お姉さン」
「……」
彼から、虫の死体を手渡される。
親指と人差し指で円を作ると、丁度これくらいの太さだろうか。
虫は首を落とされてなお、私の手の中で動いている。
その度に、手の平に粘り気のある液体が付く。
粘液は、すっかり全身を出した太陽に照らされて、不気味に煌めいていた。
本当に、これを食べるのか。
「さっさと食え」
「むぁっ!?」
焦れたのか、ジーグが私の手の平から虫を奪い、私の口に突っ込んできた。
口の中いっぱいを、異物が占領する。
ヌルヌルとしていて、ザラついた舌触りは、彩りに使う粘りのある野菜に似ている。
歯を当てると、それは弾力があり、得体のしれない危機感を覚えざるを得ない。
しばらく逡巡したが、私は意を決して、それを噛み締める。
弾む肉を噛み切れるか分からなかったが、予想に反して、いともたやすく肉は分断される。
薄い皮が破れ、固めた油に似た何かが、破裂した様に口に広がる。
虫の体液は、濃厚な土の香りがした。
強い苦みに隠れて、少しの塩味を感じる。
匂いが鼻を抜け、私の呼吸と同化した。
その肉はじゃりじゃりとした食感で、砂を噛めばこういう感覚になるのだろうか。
つまり、非常に不味い。
「んぶぉっ!?」
気に障る哄笑が聞こえてくる中、私は蹲り、地面を眺める羽目になった。
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「ハハハっ、ハハハハハっ!ダメだ腹いてぇ!」
「……『滴る布』、『子の血』、『器満たす時』」
ジーグは膝を着き、バンバンと地面を叩いて、目の端に涙を浮かべている。
口の中の、アブない薬品に近い臭いと、泥を飲み込んだ様な舌のザラつきが取れない。
味わっては駄目だと本能的に悟り、すぐに飲み込んだというのにこの有様である。
「『最後は杯を打ち鳴らし』」
空間が一瞬冷え込み、丸めた手の平に水が満たされた。
指の隙間から零れた水が地面を濡らし、土はその色を濃くする。
小杯一つにも満たない量のそれを口に含み、口内全体に行き渡らせてから吐き出す。
こうして口をゆすぐのも三度目だ。
「いやー、フフっ。あンな良い反応するとはな。俺も昔、地元のツレにやられたンだよ」
「そうかい、そんな辛い過去が。君の舌が汚いのはそんな理由だったんだね」
「そンなに誉めるなよ」
「切り落とすよ?」
彼の顔を掴み、ギリギリと締め付ける。
「あだだだだだっ!」
彼の頭骨は軋み、耳にはさぞ嫌な音が響いている事だろう。
痛みに呻く彼を、しばらく見てみる事にする。
初めは私の手首を掴み、引きはがそうとしていた彼だが、そのうち手を垂下げ、動かなくなった。
多少すっきりしたので、離してやることにする。
「痛ぃ……」
「大抵の事は、自分に返ってくるモノだよ」
「……でも、力は出ただろ?」
そう言われて初めて、自分の体を確認してみる。
確かに、今は空腹の苦痛を感じない。
それに、力も随分戻ったように思う。
どうやら、薬にも使われると云うのは本当らしい。
ジーグが、手の握りを確認する私に、優し気な目線を送ってくる。
彼の嬌笑は、どうにも私の心をざわつかせる。
何か、心の奥の方で、ぼんやりとした温かみを感じるのだ。
「まぁ、ホントに生でいくとは思わなかったけどな。ハハハっ!」
私は屈んで膝立ちになり、彼の脚を両手でしっかりと支える。
ジーグが不思議そうな目でこちらを見やるが、あえて気にしない。
そのまま、両手の親指で、彼の太ももを思い切り押してやった。
「いったあああああ!」
金輪際、コイツのことは信用しない事にする。
そんな静かな信念を、胸に刻み込んだ。
そうやって、滑稽文学の様な馬鹿馬鹿しいやりとりをしていると、またしても地面が揺れた。
さっきよりもずっと大きい。
太陽の下の晒された太ももを抑え、転げまわっていたジーグが、動きを止める。
「……こりゃあ」
「二度と食べないからね?」
「違う。……地下で動いてる感じじゃない。近づいてきてるな」
彼の言う通り、足裏で何かが蠢いているそれとは違う。
地面の振動は、時間と共に空気の揺れへと変化する。
その響きは、重い何かが、強く土を蹴り上げるそれだ。
「……これは、蹄の音?」
「これだと、結構な数いるぞ」
酒に満ちた壺をひっくり返した様な、豪雨に近い足音が少しずつ近づいてくる。
音は私たちが歩いてきた方向から聞こえてくる。
隠れようにも、そんな場所はどこにもない。
せめてもの警戒に、私は剣を抜く。
横目でジーグを見ると、彼もまた、銃を脇に抱え、風下である坂の方に注意を払っている様子だった。
「いたぞ!
背の高い、がっしりとした体格と、灰色の皮膚を持った動物。
それに乗る数人の兵士達が、稜線から現れた。
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