6話:輝く鍵、自由への出立

 整えられた壁と、剥き出しの岩壁が入り混じる地下道にて。

 床は湿っぽくて、靴底で蹴り上げると、茶色い水が跳ねる。

 地下水が流れているのだろうか。壁と道の境目には窪みが作られていて、そこを緩やかで小さな川が流れていた。


 雑にならされた道から、三種類の音が鳴る。

 木靴ブーツが地を蹴る乾いた音と、革の履物サンダルが地面と擦れる音。

 それから、粘液状のモノが這いずり回る音だ。


「ジーグ君、一つ分かったことがあるよ!」


「何をだ、お姉さン!」


「君といると、ロクな目に合わないって事をさ!」


 できるだけ嫌味に聞こえるよう、笑えもしない状況の中、私は唇の端を吊り上げる。

 長く暗い地下の道の最中、視界は周囲数歩分しか役に立たない。

 こんな事なら、油灯ランタン小盾バックラー代わりになんて使うんじゃなかった。


 肺に鞭打ち、全身の筋肉を酷使している最中。

 後ろから、ズリズリという魚を引きずっている様な音が聞こえる。

 あまりにも近いその音は、反響も相まって、耳元で死神が囁いている気すらしてきた。


「こりゃあ、俺のせいじゃねえと思うけど!」


「そりゃそうだけど、どうにも釈然としないんだよね僕は!」


 こんな時にも、どこか品のある動きで足を回すジーグ。

 確かに、この事態は彼が悪い訳ではない。

 だが、彼に馬車の上で話しかけられてから、色々なものを垂れ流す羽目になったのは確かだ。


 足元の大きな石を飛び越え、心中で彼への呪詛の言葉を唱える。

 数瞬遅れて、忌まわしい濁音と共に、石をすり潰す音が聞こえてきた。

 顔が青ざめる感覚を、ここまで続けて味わったヒトは中々いないだろう。


 湿度の高い、重い空気を吸い込みながら、私達は懸命に走った。


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 魔獣はあらゆるヒトにとっての脅威であり、唯一の天敵である。

 だがそれは、野生動物がヒトに対して安全であるという意味ではない。


 山の中で出会う熊に襲われたら、そこらの人間であればひとたまりもないだろうし、草原を駆ける野牛に突かれれば、命を散らす事間違いなしだ。


 『ツリーニ』と呼ばれる動物も、危険な動物の一つに入る。

 暗く湿った所を好み、動くもの全てを喰らう不定形の生物。

 その身でのしかかられ取り込まれたら最期、体内のですり潰されるという、凄惨な結末を迎えると聞く。


 槍で突こうが火で炙ろうが死なない、厄介な生き物だが、一つだけ弱点が存在する。


 ツリーニは、光を苦手としているのだ。

 徹底的に光源を避け、明かりに照らされるのを何より嫌う。


 生きている所を見た者はほぼおらず、学者たちがこぞって、生け捕りに高額な報酬を出しているらしい。


 つまり、明るささえ確保すれば、対処は容易だ。


 左の人差し指の先に灯した青い炎が、少しずつ小さくなっていく。

 足元の青白い環も、それに呼応して範囲を狭めた。

 ズリズリとした、生理的に不快な水音が近づいてくる。


「うっ……」


「ほら、次は右手だ。さっさとやりなお姉さン」


 私はジーグの差し出したお椀に向け、無言で右手の先を突っ込む。

 僅かに粘つく、甘ったるい匂いに塗れた右手を見ると、その手の様子と同じ気持ちになってくる。


 決して姿を見せない気配に怯え続ける私と、余裕そうに欠伸をかます隣の少年。

 もう一度引っ叩いてやりたい気持ちを抑えながら、私は集中して語句を並べる。


「『白き炎』、『三つ子の月』、『湧き立つ泉』」


 私は左手の火が消える前に、魔術を行使する。

 じわじわと、体の中から大事な何かを失っていく感覚。

 手の熱さとは対照的に、ぞわりと背筋が粟立った。


「『討議は灰に』」


 ゆっくりと、終の語句を述べる。

 右手の指先に、左手のそれと同じく、そして今のそれよりも大きな、青い灯が灯った。


「あっ……つうぅ……」


 蒸した手拭いを瞼に押し当てた時に近い、声の漏れる熱さが指先を襲う。

 これで同じことを繰り返すのは四回目だが、未だこの感覚には慣れない。


 青い光に照らされながらも、はっきりと分かる程に、両の手の指先は痛々しく赤を帯びている。

 火のもたらす熱とは別に、苦痛が与える汗が頬を伝った。


「詠唱魔術は、こういう時に便利だな」


「こっちは結構辛いんだからね。力は抜けるし指は熱いし」


 空いた左手で汗を拭う。


 二人の兵士を討ち、合流した私達はあの後、しばらく道なりに進み、すぐに引き返した。

 暗闇の中、特徴的な湿っぽい音が聞こえたたからだ。


 床に撒かれた油と、部屋の壁灯に使われていた燃料をせっせと器に集め、今に至る。

 一度入口まで戻る事も考えたが、上の騒ぎが収まりつつあるから、追手が来るのも時間の問題だろう。


「そういや今のは、何て言ったンだ?」


「何の話だい?」


「今の魔術だよ。どんな事言ってンだ?」


 そこで初めて、彼の言いたい事を理解する。


 魔術に扱う言葉は、普段扱う言語とは全く異なる。

 私は左手を顎にやり、相応しい言葉を探した。

 文章の翻訳は、何時の時代も難しい。


「うーん。……燃料を使って、ちょっとだけ火を灯します。話は終わり。って感じかな」


「……なンか、気が抜けるな」


「そんな事言われても。普通の言葉に合う意味がないんだから」


 人間にこういう質問をされたのは初めてではないが、上手くいった試しがない。

 後ろから聞こえる、怪物の足音に思考が乱され、いつもより頭が回っていないのもある。

 うんうんと、もっと良い表現は無いものかと頭を悩ませていると、彼が口を開く。


「けどよ、俺が昔見た魔術とは、なンか違うんだよな。それ」


 そう言ってジーグは、両の眼で私の双眸を見つめてきた。

 興味深げに、こちらの心を穿つ宝石の視線は、直視していると妙な気分になる。


 私は努めて、彼と目を合わせない様にする。

 弓の様に美しい、鼻先の辺りに視線を向けた。

 

「……昔って、君一体いくつだよ」


寝台ベッドの上でなら聞かせてやるよ」


 そう言って彼は、何も持たない右手を、こちらにかざす。

 傷一つない細く長い手が、妖しく虫の脚の様に蠢いた。


 指一本一本が別の生き物なのかと思う位、私の目前でその有り様を晒す。

 ほんの僅か、自身のモノとは思えない息が漏れた。


 慈しみと淫らさを等分に含む、妄りがましい動きに危機感を覚えた。


「うおっ!?」


 反射的に、彼の側頭部に強かな肘鉄を食わせる。

 鈍い衝撃と、乾いた音が冷たい空気に響く。


「次やったら、頭かち割るからね。っとと……」


 腕を大きく動かしたからか、指先の火が揺らめき、見るからに小さくなった。


 この火は正しく命の炎だ。

 絶対に消し去るわけにはいかない。

 自分の浅はかな行いに、胸中でため息をついてしまう。


「阿呆な事やらせないでよ。ほら、油出して……。どうしたの?」


「……」


 ジーグが一撃をもらったままの姿勢で、立ち止まっている。

 私から離れれば、すぐにでも、あの忌まわしいケダモノが襲い掛かってくるだろう。

 そんなに強く一撃を見舞った覚えはないが、私と彼ら人間の体は作りが違うし、もしかしたらやりすぎたのかもしれない。

 軽い罪悪感を覚えながら、ジーグに注意を促す。


「そんな所いたら危ないよ。早くしないとあいつらが……」


「……お姉さン」


「なんだい?」


 彼の手にあるはずの、器と油。

 それが、湿り気ある石床にぶちまけられていた。

 右手の熱も忘れて、寒気を覚える。

 餌を取り上げられた犬の様に、火が揺らめきと共に、身を縮こませた。


「走るぞっ!」


 ジーグが焦りを含んだ叫びを発したのと、火が最期の盛りを見せたのは同時だった。

 

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 床から響く水音が、強さを増す。

 固い木の靴底が湿り、穴でも空いていたのか、足裏を刺す様な冷たさが襲う。


 所々に存在する道の欠けた場所や、隆起した部分、石畳の継ぎ目に足を取られながら、それでも転ばぬように必死に走った。


 本能的に不安を覚える奇怪な音が、先程よりも大きく、また数を増しているのが分かる。


「くそっ、何か、増えて、ないかいあれ!」


「整備さぼって、たンだろうっ。教国ももう、長く、ないな!」


 本来愚痴を言っている余裕はないが、それでも言わずにはいられない。

 そのまま息を切らしながら、少なく見積もっても100オルン(訳注:約360m)は走り続けると、文字通りの光明が見えた。


「出口っ!」


「外っ!」


 もうお互いに、まともな言葉すら発せない。


 地下でそれなりの時間を食ったから、正確なところはわからないが、時刻で言えば恐らく、一日の始まり頃だろう。


 そう遠くない先、三つ子の月が地平線に消え、ヒトの両親たる双つの太陽が、宵闇を破って姿を現す。

 明かりさえあれば、気色悪い粘液に食われる事もないのだ。


 私は足を踏切り、光ある世界に頭から飛び込んだ。


 草の少ない固い土に胸を打つ痛みに、声を漏らす。

 呻く暇もなく、背中に衝撃が走り、遅れて重みを感じる。


「……どいてくれよ」


「こいつは失敬」


 ジーグが私の背の上で転がり、地面へと落ちる。

 彼が立ち上がるのを横目で確認してから、私も膝を着いた。

 地下の重苦しいものとは違う、乾燥していて澄んだ空気が肺を満たす。


 チラリと来た道を見ると、自然と人工の合いの子の様な、不自然な洞穴が見えた。

 洞穴の上には、覆い被さる様に崖がある。

 周囲は凹凸の激しい、歩き辛そうな岩にまみれており、好んでこの辺りに来るヒトはそういないだろう。

 

「ンで、これからどうするよ。お姉さン」


 ジーグは、垂れ下がる腰布に付いた土ぼこりを手で払い、問いかけてくる。

 少年の髪は水気を吸い、ほつれた麦束の様にも見える。


 前髪の隙間から見える額は、繻子の様な汗で彩られていた。


「……ここに居ても、そう遠くないうちに追手に捕まる。僕や君の見た目は、この辺では悪目立ちするだろうね」


 これが異頭族ザレムザーヴ西方人イアラハムなら、ヒトに紛れる事も叶っただろうが。


 私の若葉色の髪や木の葉形の尖った耳、ジーグの灼熱の髪と赤銅の肌は、遠目に見てもハッキリとわかる。

 軽はずみに人前へ顔を晒すのは、遠回りな自殺と同じだ。


「あいつら、僕の船を襲った時、島に連れて行くと言ってた。この辺で島と言ったらジホ諸島位だ。新大陸まではそう遠くないハズだよ」


「あの総督さンも、ジホ諸島総督とか言ってからな。多分合ってンだろ」


「よく覚えてるね……」


「記憶力は良い方なンだ」


 少年は胸を反らし、自慢気に鼻息をつく。

 珍しく見た目に相応しい、微笑ましい有り様に、思わず苦笑してしまう。

 だから。と前置きをして、私は考えを纏めた。


「簡素なモノでいいから、船を見繕って、ここから出ないと。とりあえず――」


 漁師でも見つけて。

 そう発するはずだった声は、吹きすさぶ強い風にかき消された。

 紫の空に浮かぶ淡い雲が、徐々に輪郭を作るのが見える。


 朝が来る。


 暗くぼやけた風景が、ハッキリと形を成し始めた。

 太陽がせり上がり、水平線が白く輝いて見えた。

 夜の行った先はまだ薄暗いが、それでも、数瞬前よりはしっかりと目に映る。


 月の沈んだ先に、水平線はない。

 大河の様な海の先に、対岸が見える。

 地平線の先から顔を出しているのは、山脈だろうか。

 それは私の小指よりも、ずっと小さい。


 視線の先にある、新大陸。

 そこにはきっと、私の求めるモノがある。


「お姉さン?」


 私よりもこぶし二つ分程低いところから、声がした。

 気づくと、少年が訝し気に、こちらを見つめている。

 どうやら、思っていたよりも、風景に見入ってしまっていたらしい。


「……なんでもないよ。行こう。ここを出るまでは、一緒にね」


 そう言って、私たちは歩きだす。

 思っていたよりもずっと歩き辛い、岩の地面を踏みしめて。


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