3話:羊の群れのざわめき
「……こいつは縛っておけ。後でたっぷりと期待に応えてやる」
三つ子の月の白い光と、篝火がもたらす赤い光が混じって、夜の広場を照らしている。
大男が目の前の少年を指し、指示をだす。
ジラールと名乗った総督は、呆気にとられた間抜けな表情を引っ込め、仮面を張り付けたように、その感情は読み取れない。
「手縄だけじゃ足りないか? そういう趣味はねぇけど、お望みなら相手してやってもいいぞ」
少年はなおも挑発的な態度を崩さない。
彼は情けを乞う情婦の様に、淫猥に腰を動かす。
頭から足先まで、計算尽くされた様に、劣情を誘う華奢な体躯も相まって、少年を直視した何人かが生唾を飲み込んだ。
「早うせんか!」
総督が一括すると、兵士たちはようやっと我を取り戻したかのように、ビクリと肩を跳ねさせ、持ってきた縄で少年を縛り付ける。
縛られている間も、少年の眼は黄金色に爛々と輝やき、口元が蠱惑的に歪む。
対照的に、兵士たちは目を伏せ、黙々と、何かを我慢するように作業をこなしていた。
これではどちらの立場が上なのかわからない。
兵士が少年を縛り終わる。
肩から手の先まで、肌肉に大きな段差ができる程に強く縛られているその姿は、見ているこちらが痛く感じる程だった。
夜露も気にせず野原を遊びまわる、子供のように少年は笑みを浮かべ続けている。
少年は兵士たちに縄を取られ、どこかへと連れられて行く。
連れる彼らが、前かがみ気味なのは気のせいではないだろう。
総督はそれを一通り眺めてから、こちらを向いた。
彼が私たちをグルリと見渡した時。
不幸にも、私と目が合ってしまった。
「まずはそこの
周囲の囚人、兵士、見物人の視線が私に集まる。
首を左右に振って見渡してみるが、私と同じ外見的特徴を持つヒトはいない。
ジワリと、脇と背中が湿っぽくなってきた。
どうやら私の事を指しているらしい。
兵士の一人が傍に寄って来る。
先ほど、醜悪な失笑の渦の中、ただ一人違う顔をしていた若い兵士だ。
彼だけが、酷く嫌なものでも見たように、目を逸らしていた。
彼の事は何も知らない。
ただ、わずかにあどけなさが残るその顔貌と同じように、心の根も、純真さを僅かでも取りおいてあるのだろう。
その兵士に腕を取られ、広場の中心に向け歩く。
段差を四つか五つ上り、提督の前へと連れてこられた。
兵士からは、嘲りを。
観衆からは、無機質な。
囚人からは、恐怖。
それぞれの感情や感性を含んだ、複雑な視線が背中に張り付く。
どこからか、獲物を狙う様な、野蛮なそれも感じた。
「お前の処遇も決めていなかったな」
総督が喉を震わす。
大きな篝火の熱によるものか、緊張と恐怖によるものか、額から汗が流れ出る。
汗の一条が目に入り、思わず目を眇める。
残った片目も、赤白い光に焼かれ、開けているのが酷く辛い。
潮の香りのする風が篝火を煽り、炎が勢いを増した。
「余程の外れ者でない限り、お前も『緑林の王国』の貴族であろう。安心せい、悪いようにはせんわ」
装飾過多な、悪趣味な服装をした彼は、そう呟いた。
先ほどまでは、逆光でよく見えなかった顔。
それは片目を眼帯で覆い、大小様々な傷が濃く残る、歴戦の戦士のそれだった。
なにかの香料だろうか。
独特の、甘い匂いがキツく、思わずえずきそうになる。
「……斬首刑に処す。私自らな。直接首を落とすのは久々だが、お前が動きさえせねば、苦痛は与えん」
量を増やした汗の線が緩やかに落ち、唇の端にかかる。
生理的な塩味。
自分でも気づかないうちに、火の前だというのに、水浴びでもしたかのように体中が濡れている。
内股がジワリと熱い。
それが緊張によるものなのか、小水を零したものなのかも、自分ではわからない。
「……総督、本当に良いのですか?」
私の手を引いていた若い兵士が、一言、上司に尋ねる。
「下手をすれば外交問題に……」
「くどいぞアルフォル。今夜は口答えするなと言いつけたはずだ」
アルフォルと呼ばれた兵士と総督は二、三の呼吸の間見つめ合った。
その後、若い兵士は両の瞼を閉じる。
眉間と額に大きく皺を刻んだきり、彼は何も語らなくなった。
それを見た総督は、大柄な体躯を更に大きく見せるように、大仰に頷くと手を振り合図を送る。
「ブエッ!」
突然、背中に衝撃が走る。
背中を押され、地面に倒れ伏したのだと気づくのに時間がかかった。
四つ這いに近い、惨めな格好だ、
固く冷たい地面と、ささやかな胸が抱擁を果たし、肺のなけなしの空気が絞り出される。
カエルの様な無様な声。
場に合わない羞恥を覚えると、その間もなく身に着けた頭巾の根元を掴まれ、半身を持ちあげられる。
肌着ごと強く引っ張られ、首を吊られるような形になる。
新鮮な空気を求め、自然と下半身が体を支えようとのたうち回るのが分かった。
誘導されるように、膝を付くような態勢に持っていかれると、ようやく首の圧迫が消失する。
と思うと、背骨に痛みが走った。
恐らく膝であろう、固い何かを押し当てられ、丁度、許しを請うように首を差し出す形になる。
見物客からは正に、囚人の今際の際を示す絵画の様に見えた事だろう。
冷たく固い地面。
接した足がジクジクと痛み、先ほどまで感じていた、足の裏の違和感と同じそれが、下腿を襲う。
火に炙られる半身は痛む程に赤く照らされ、影になる半身は恐れを覚える程に暗く冷たい。
自分の、荒い呼吸音と、激しく波打つ鼓動が耳を苛む。
若い兵士が、私の頭、正確には首と頭の境目に手をかける。
四重に巻かれ、顎を閉じることも許さなかった忌々しい轡。
それが力なく、湿っぽい音を立てて落ちる。
「安心せい、女。頭は丁寧に包んで、祖国に送ってやる」
耳の奥の奥。
ゴウゴウと、血管が蠢いているのが分かった。
「首から下は……そうだな。肉付きはそう悪くないな」
脚の違和感が頂点に達する。
痺れにも似た、何かの気配。
「有難く、使わせてもらおう。最近では女も不足していてな」
徐々に、体から音が消える。
遠くで聞こえる、獣の遠吠え。
「部下たちも色々と溜まっているのだ」
頭に浮かんだのは、ケダモノの群れ。
地下に蔓延る小さなそれと、地上をさ迷う大きなそれ。
金属がこすれる、高く乾いた音。
戦士の腰から、直剣が引き抜かれる。
「そうそう早く、冷たくなってくれるなよ」
喜色を示す、兵士たちの歓声。
期待に満ちたその眼差しは、石畳に視界を支配された私の背に刺さる。
それに混じる、ヒトのそれではない、何かの視線。
ほんの僅かに、首を傾け、私は双眸をそちらに向ける。
今正に振り下ろされんとする腕の先。
厚く低い外壁の外角にある、塔の頂点。
一匹の獣が、こちらを見据えていた。
「異端とはいえ、祈ることくらいは許してやろう。最後に言い遺す事はあるか?」
総督は厚く、先にかけて細くなっていく剣を肩に乗せ、不遜に言う。
散々と畜生の様な素振りを見せておきながら、最後の最後に慈悲を見せたいようだ。
ずっと固いものを咥えさせらていたからだろうか、唾液が止まらない。
ボタボタと、粘り気のある水音が、空気を震わす。
恰好も、有様も、餌を前にした犬の様。
「……それじゃあ、少しだけ」
「……」
だからこそ。
最期くらい、ヒトでありたかった。
「死ぬ前にもっと色んなものが見たかった。白き炎を吹き出す、灼熱の火山とか、黒い炭みたいな、極北の、尖った木々とか」
「……何?」
総督は眉根を上げ、細く深い眼を細める。
訝し気だが、話を聞いてはくれるようだ。
案外、律儀な性格なのかもしれない。
「色々、冒険をしてみたかったんだ。不自由な身でね。面白いものを見つけて、仲間と出会って、敵を討つ。そういう、物語の様な事を、してみたかった」
傍の篝火の勢いが、突然に強くなる。
ゴオゴオとした音は鼓膜を揺らし、弾けた木の先が中空に散った。
冷えていた右肩が熱い。
周囲の空気が、先ほどまでより広く熱をもっている。
「さあ、総督さん」
「……貴様ッッ!」
一つ目の大男が、肉厚の剣を振り下ろす。
零れる唾液で、発音が上手くいかない。
それでも、打ち捨てられた炭の様に努めて冷静に、そしてなにより、白く輝く炎の様に情熱を込めて。
間延びした時間の中で、私の望む、最期の言葉を言い放つ。
「話は終わりだよ」
「ッッッ!」
ごう。
と、傍の篝火の炎が産声を上げる。
異常な熱量が周囲に立ち込め、私の半身を照らしていた火が、一つの形をとる。
私の呼びかけに応えたそれは、細長い蛇の様だった。
「あぁうぁあああッ!!」
蛇型の火が、目の前の男の半身を焼く。
そのまま剣を持つ太腕を、良質な薪だと言うように喰らっていく。
「あぁあうああッ!」
苦悶の声と、血が弾ける音の協奏。
肉と皮の焼ける臭いが立ち込め、灰色がかった白い煙が視界を狭める。
それと同時に、轟音が鳴り響く。
何かが壊れ、崩れる響きと、大量の、固く小さな物が地面を蹴る音。
空気が揺れている。
兵士たちが一斉に身構えるが、いささかそれは遅かったようだ。
闇夜に紛れる黒い塊が、兵士の一人に飛びつく。
骨が砕け、肉が引き裂かれるのが、離れたここからでも分かった。
一瞬遅れ、町中に悲鳴が木霊する。
兵士を糞尿の詰まった肉の袋に変えたそれが、ゆっくりと面を上げる。
それは、狼に似ていた。
四肢を地に付け、その先端からは爪が覗く。
元はヒトの手であったであろう部位を咥えながら、私を、いや私たちここにいる全員を見渡している。
足元に血だまりを作りながら、それは全身の毛を逆立たせた。
それは、私を含めた我々全員が呆気に取られている間に、それらへと成った。
続々と、ゆっくりとした足取りで、先頭のそれの下に、それと同じ姿のそれが集まり続ける。
闇夜の中、比喩でなく、金色に輝く瞳。
軍馬の様な圧倒的な体躯。
何より、それの背の中央からは、一つだけ、不格好な白い翼が生えていて、背びれの様にも見える。
それは、狼に似ていて、確実に狼ではない。
獣でありながら、頭のおかしな芸術家の作品のよう――。
「魔獣だ! 魔獣の群れだ!」
兵士達が叫び、観衆は逃げ惑う。
違う行動をとる彼らの顔面は、どちらも同じく彩られている。
恐怖という、原初の色彩に。
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