4話:胸に抱き、近づいて、分かち合い
『魔獣』。
魔獣とは、ヒトにとってのヒト以外の唯一の天敵であり、天災である。
魚の背びれの様な、白い翼を体のどこかに生やし、その姿は芸術作品に子供が手を加えたような、そんな心象を抱かせる。
それらはただヒトを襲い、蹴散らし、社会を食い荒らす存在。
魔獣たちは、いつもの通りに、ヒトを肉の塊に変えていく。
「総督、こちらへ!」
「市民を避難させろ! 至急だ!」
「あぁあ!! 返せ、返してくれ! 俺の脚なんだぞ!」
ヒトの骨が砕ける音と、物の割れる音。
その響きに大きな違いは無い。
違いがあるとすれば、むせるような血の臭いを併せて発するかどうかだけだ。
闇夜の中存在していた点々とした光が、少しずつ、微かな乾いた音と共に地に落ちる。
目先から二十歩ほどの所にいる、一体の魔獣。
狼に似たそれは、兵士たちと対峙している。
口元は赤く染まり、周囲にはヒトの残骸が、飽きられたおもちゃの様に散っていた。
カラカラとした空気の震えは、更に大きな振動によってかき消された。
「――ッ!」
魔獣が叫ぶ。
その咆哮は空気のみでなく、魂までもを震わした。
ゾワリと、首元から股下までが、氷でも入れられたかのように冷える。
意思とは別に、自然と体が固まり、それは兵士達も同じだった様だ。
彼らは魔獣が、自らの首元を食いちぎるその瞬間まで、そして首と胴が離れた後も、動けない。
「ハッ……うぁ……ふぅ……ッ!」
ヒトとしての意地も、品切れだ。
あの時、魔獣の姿を遠くに認めたから、
だけれどそれは、悪あがきの様なモノで、ここから先どうするかまでは考えていない。
呼吸は荒れ、冷たい石畳が温かく感じる程、体は恐怖に震えている。
もう、股と太ももを濡れを気にする余裕すらない。
あらかたの兵士を片付けた魔獣。
その金色に輝く丸い瞳は、死の恐怖を呼び起こすのに十分だ。
鋭い矢じりに似た形の、黒い眼窩に収まるそれと、目が合った。
まずい。
まずい。まずい。
まずい。まずい。まずい。
「ハッ……ハハッ……ひぅッ……」
表情を作る筋肉が痙攣し、頬を吊り上げ、首が固く締まる。
恐らく、誰かがみれば笑みを浮かべているようにも見えただろう。
自分の心臓が、これほど働き者だとはしらなかった。
同時に、肺が堕落した怠け者だとも。
どうせなら、心臓の過労で死んでしまえないものか。
錆びた鉄の臭いが、少しずつ近づいてくる。
気づけば、獣は私から十歩程のところにまで来ていた。
死ぬのは、嫌だ。
そんな当たり前の言葉すら、私の口は紡いでくれない。
不細工に、壊れた楽器の様な音だけが、喉から出てきた。
狼ににたそれが、背中の翼をはためかせながら、
それは平伏でも、物乞いでもないのは明らかだった。
地面を僅かにこする音が消える。
気づくと、視界いっぱいに赤黒い楕円が迫っていた。
それが恐るべき速度で突進してきた魔獣と、その口腔であると気づく間もなく、私は横に飛びのく。
右肩を固い石に打ちつけながら、転げまわる。
あちこちに擦り傷が出来るだろうが、そんなことを考えている余裕もなかった。
死にかけの芋虫のように、無様な姿を晒しながら、私は横目で魔獣を見る。
赤い輪郭をもつ黒い影。
そばの篝火が逆光になり、闇夜に佇むそれは、神聖な石像にも見えた。
いつだって、ヒトは何かを信仰している。
それは例えば、手の届かぬ神であったり、足を運ぶ寺院であったり。
それは例えば、庭に生える黄色い花かもしれないし、痴話の後に生まれた子供の笑顔かもしれない。
そしてそれは、無様であろうと生きようとする、ヒトとしての在り方であったりもする。
「『白き炎』! 『黒き炭』! 『敵を討つ』!」
魔獣が再度、私にとびかかる。
あれのもつ凶器に触れれば、私の肌は裂け、血を散らし、骨は砕かれるだろう。
しかしその爪が、牙が、恐怖のそれが、私の首を掻き切る前に、私の喉は役割を果たした。
「『討議は灰に』!」
魔獣の後ろから、弾ける音がする。
かがり火の炎は、それをそのまま切り取ったように空中に浮かび、一つの形をとった。
それは槍の様に細長く、剣の様に鋭い、赤くゆらめく蛇。
炎の蛇は魔獣を上回る速度で、宙にいた獣に食らいつく。
魔獣は炎の生む熱と衝撃に煽られ、先ほどの私よりもずっと勢いよく、地面に叩きつけられる。
魔獣の左後脚は焼き切られ、これまでのものとは違う、獣の絶叫が辺りに響いた。
獣の脚の断面から蒸気が吹き出し、白煙が辺りを包む。
周囲には火の粉が散り、石畳を淡く照らす。
常であれば瞬きのうちに消えるであろうその火は、生きているかのように揺らめきながら、地にしがみついている。
それは卵から孵ろうとする虫に近い姿であった。
親たる蛇形の炎は、餌を求めるように、なおも魔獣に襲い掛かる。
魔獣は呻きながらも起き上がり、跳ねる様に動きだす。
しかし、脚を一本失ったことで正常な平衡を失ったのだろう。
一瞬、魔獣の動きが止まった。
しかしすぐに、ひれのような翼をわずかに揺らし、天へと飛び跳ねる。
こちらに腹を見せ、そのままの勢いでとびかかるかと思われた。
その想像に反して、その体は空中で静止した。
猛追する炎は獲物の急停止に対応できず、魔獣の傍を通り過ぎ、魔獣の毛先を僅かに焦がすに留まる。
その後魔獣は、妙な加速をつけて体をねじり、三本の足でしっかりと着地した。
それはおよそ動物的でない、不気味な動きであった。
魔獣の動きはどこか人間の感性に障る。
普通の動物、それも三本の足ではとうてい成し得ない軌道は、蛇型の炎をいともたやすくかわしきった。
赤き大蛇は遺言でも遺すかの様に、最期にゴウと勢いを増してから、その姿を消した。
もとより、魔獣がこの程度で殺し切れるとは思っていない。
おそらく、私はここで豚の餌のように食い散らかされ、無為に死ぬのだろう。
それでも、生を諦めるなんて事は、私の信仰が許さなかった。
魔獣は身を屈め、全身の毛を逆立たせる。
篝火を組んでいた木材が、バラバラと崩れていった。
「……『時経つ巨木』、『青々とした草々』――」
あれだけ明るかった大きな篝火は既にない。
一つの魔術で殺し切れないのなら、二つの魔術を。
私が震える舌と揺れる歯を必死に抑え、詠唱を始めたその時。
「ぇえいぁ!」
勇敢な声と共に、一本の剣が闇夜を切り裂いた。
剣は弧を描きながら、横なぎに魔獣の翼に触れる。
翼の根本と魔獣の背中、その結合は刃に潰され、徐々に切り離されていく。
その根の半ばに至ったところで、剣は止まった。
かと思うと、丸みを帯びたひし形のそれはくるりと回転し、そのまま直角に切り上がる。
明らかに力任せに振られた最後の一撃に、半端に裂かれていた翼は吹き飛び、魔獣の体と別れを告げた。
空高く、主を置いて飛んだ翼。
それは一瞬後、ゆらりと翻ったかと思うと、蒸気のような音を出しながら消えてなくなる。
「――ァッ!」
突然の攻撃に、獣は苦痛の声を上げながらのたうち回る。
異形の翼をもがれ、悶えるそれは、初めて普通の動物の様に見えた。
高く掲げられた剣は、そのまま制御された落下軌道を取る。
それは鈍い音をたてながら、魔獣の頭をかち割った。
「立て、囚人! ここを離れるぞ!」
呆気に取られていると、そこには臓物と血の臭いを漂わせた、小柄なヒトが立っていた。
彼は荒く息をしながら、私の手と胴を縛る縄を掴み、私の体を無理やりに立たせる。
暗くて一瞬分からなかったが、先ほどアルフォルと呼ばれていた若い兵士だ。
「こっちに来い。ここじゃ命が幾つあっても足りないぞ」
兵士は周囲を忙しなく見回しながら、そう語りかけてくる。
その視線は肉食獣の気配を察した草食動物に近い。
彼の体は血で汚れ、鎧には何かの残骸がこびり付いていた。
暗闇の中でも、この短い時間で激しい苦労があったのがよく分かる。
「君、その傷……!」
「ん、あぁ。これは……俺のじゃない。とにかく急ぐぞ。ついてこい」
私の心配をよそに、兵士は右手に剣を携え、軽く身を屈めながら走る。
彼に倣い、私も同じように歩を進めた。
チラリと、魔獣の死体の方に目をやる。
そこには、煤と白い煙以外、何も存在していなかった。
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「ここだ、早く入れ。奴らの餌にはなりたくないだろ」
天井の低い、石造りの平屋を前に、彼は私をそう急かした。
平屋の扉には、黒地に白い円環が描かれた垂布がかかっている。
その円環の中央には先の尖った十字、つまり剣があしらわれており、それはこの世界で知らないヒトの方が少ない紋章であった。
進んで入りたいとは思えない。
だが、ここでぼんやりしていても、彼の言う通り良くて首無し死体、悪ければ男か女か分からないような肉の残りだ。
扉の握りに縛られた手をかけ押すが、かなり重い。
この身であるから開けるのに労する程ではないが、か弱い人間の女であれば、中々に辛い作業になるだろう。
ゴツゴツとした安っぽい石の扉を開き、中に体を滑り込ませる。
兵士は開いた扉を支えながら周囲を見渡し、安全を確認したのか、スルリと入る。
屋内は雑然としており、独特の獣臭のする書類の束や、明らかなゴミが散らばっていた。
彼は私に声をかけ、腰のナイフを引き抜く。
調理にでも使えそうな、装飾の無い堅実なそれ。
彼はその小さな刃で、私の束縛を断ち切った。
血流が回復し、うっ血していた血が全身に周る。
ジリジリとした前腕の感触と、原初の快楽に身を震わしていると、彼が口を開いた。
「ふぅ……。とりあえず、一息つけるな」
彼はそう言うと、剣を腰に付けた赤い革の鞘に戻し、息を吐く。
顔をしかめているのは、自身の体からする臭いのせいだろう。
数歩離れたここからでも酷い臭いなのだから、彼の苦痛は想像に難くない。
自由になった両手で、ドロドロとした死体の置き土産を丁寧に払っている。
「なぜ……」
「ん?」
「なぜ、助けたんだい?」
私は疑問を口にする。
彼が善良な人物なのだろうことは、処刑を前にした時のやりとりで何となくわかった。
それでも、その善良な精神が、危険を冒してまで私を助ける理由になるとは思えなかったのだ。
それを信じられる程、私は無垢ではないし、思惑を勘ぐってしまう程、私は歳を取っている。
彼は顎に手をやり、考え込むように視線を漂わす。
「そうだな……、まず第一に、アンタを、アンタらをここで殺してしまうのがまずい事くらい、俺にだって分かる」
「……」
「アンタらと小競り合いしてるたって、それはこっちでの話だ。貴種を勝手に処刑なんてしたら、本腰入れた大戦争になるだろ」
彼ら『城塞の教国』と、私の故郷『緑林の王国』は、控えめに言って仲が悪い。
新大陸では領土を巡り、争いが絶えないとよく耳にする。
それでも表向きだけではあるが、近隣国としての外交儀礼は守るのが通例だ。
実際のところは私がそうされたように、私掠船や雇った海賊を使って妨害しあっているが。
「総督は、明らかに焦ってる。本人だってこれがマズいって事くらい、よく分かってるだろうに。」
「処刑騒ぎは、君達の本位ではない?」
「『俺たち』にとっては、望むところなんだろうな。でも、総督みたいに指揮する立場にとっちゃ、そうでもなかろうさ」
教国は今、窮地に立たされている。
それが外部にだって分かるくらい、状況は芳しくない。
先代の遺した、度重なる戦争による多額の戦費や、自治区の独立。
それに加え、植民地では反乱も起こっていると、船内で聞いた覚えがある。
「つまり、これ以上敵を増やしたくないと? ただの兵士にしてはいやに先を見ているね」
「俺はこんなナリだが士官だよ。教育だって、十分かはわからんけど、されてる」
彼はそう言うと、顎にやったその手が汚れ切っていることに気づいたのだろうか、慌てて袖で汚れを拭く。
若いその身を見ると、確かに他の兵士と違い、鎧に装飾が施されている。
もっとも、装飾は血と、張り付いて取れなくなった何かの皮膚で覆われているが。
「それにまぁ、何より……」
「……何より?」
彼の言葉は途切れ、視線を空中に漂わせながら、黙りこくってしまった。
ゆっくり瞬きを十回はできる程に間を空けた後、彼は顔を僅かに赤く染めながら、言った。
「きゅ、窮地の女の子を助けるなんて、物語の英雄みたいで、かっこいいしな」
「……」
「……何か言ってくれ」
「君、冗談が下手くそ過ぎるよ」
こんな状況でそんな事を言われて、どんな顔をすればいいのか。
呆れの感情を隠す気すら起きない。
苦笑いを返す事すら難しい。
「大人になるまでに、もう少し女性との会話を勉強するべきだね」
「俺はもう二十一だぞ」
その数字が、人間にとっては大人なのだという知識はあるが、あまり実感が湧かない。
そもそも、二十代なんて私や私たちにとっては、十分子供である。
半眼で彼を見ると、彼はしどろもどろに何かを言い始めた。
少し待ってみたが、それはついに意味のある言葉になる事は無かった。
更に眺め続けると、彼は一つため息をついて、反論を諦めたのか話題を変える。
「……まぁいい。アンタも知ってるだろうが、ここの地下には色々と設備がある」
「悪名高い、審判の部屋かい?」
旧大陸西部では、『円字教』という教えが一般に信仰されている。
その『円字教』の総本山が、彼ら『城塞の教国』内に存在し、その中には異端の弾劾や極秘裏の武力介入を行う部門が存在している。
『聖剣省』とよばれる部門の紋章は、剣を内包した白い円。
ちょうど、ここの扉にかかっていたそれと同じである。
「そうだ。そしてその先は、街の外に出る避難路に続いてる」
「避難路?」
「新大陸じゃ、いつ原住民が反乱するか分からないからな。大抵の街にはあるもんだ」
やましい事ではないだろうに、その声は先ほどよりも少し低く、小さく聞こえた。
彼は言葉を終わらすと、扉の方へと歩いていく。
「君はどうする?」
「仲間が戦ってるだろうからな。さっきは奇襲をもらったからあんな有様だったけど、こっちは数が数だ。そうそう負けはしない」
「そっか。……ありがとう。本当に助かったよ」
私が礼を述べると、彼は驚いたように目を見開いた。
そんな失礼な態度に、いささかムっとせざるを得ない。
彼はそんな私を見て、バツの悪そうに口の端を歪ませる。
「アンタらでも、礼は言うんだな」
「……同族の無礼をお詫びするよ」
「まぁ、どういたしまして? 一応、その辺の剣を持って行きな。いくらアンタら
そう言って、彼は私の方、正確には私の後ろにある武具棚を指さす。
つるりとした、滑らかな石でできたその棚には、重厚で丈夫そうな剣がかかっている。
その他の棚にも、横向きで槍が積まれていたり、長銃が立てかけられているのが見えた。
私は彼の指さした両刃の剣を手に取り、彼の方に向き直る。
それを確認すると、彼は軽く頷いた。
その後、重い石の扉を開き地獄のような街に出て行った。
「……ありがとう」
発した声は届いていないだろう。
それでも、改めて彼の優しい心に、もう一度感謝を述べたくなった。
あのサマにならない冗談も、緊張を解そうとしてくれたのだろうと分かる。
またどこかで会えたら、何か礼をしなければならないなと独りごちながら、私は地下への扉を開いた。
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