6.水族館へ行こう!
第19話 悠一さんのスランプ
短い春が過ぎ、青々と伸びた草木に雨がしとしとと打ちつける。
店内を彩るのは、アジサイや傘、カエルをモチーフにした飾りつけ。夏にピッタリなわらび餅やくずきり、水羊羹が涼しげに輝いている。
季節は六月。兎月堂にも梅雨の季節がやってきた。
「よしっと」
閉店時間になり、私はいつも通り店を閉めた。
「悠一さん、お先に失礼します」
厨房に声をかける。だけど厨房からはなんの返事もない。
「悠一さん、悠一さん?」
聞こえなかったのかと思い、少し大きな声をかけると、ようやく悠一さんは顔を上げた。
「ああ、ごめん。何?」
「いえ。お先に失礼します」
悠一さんは慌てて時計を見た。
「あ、もうそんな時間か。うん、お疲れ様。僕は今日も遅くなると思うから、先にご飯食べてて」
「はい。分かりました」
店を出て、古びた階段を上がる。
悠一さん、今日も遅くなるのか。
薄暗くなってきた空。ポツポツと屋根を雨が叩く。
最近、悠一さんは前よりも帰りが遅い。十時や十一時に帰ってきたり、酷い時には日付をまたぐ時もある。
何でもお中元シーズンに出す新商品の開発のためだっていうけど……。
一人で部屋に戻り、ご飯を食べる。二人でご飯を食べるのに慣れてしまったからか、しんと静かな部屋は何となく寂しい。
「ただいま」
この日も悠一さんが帰ってきたのは、もうすぐ日付が変わろうかという時だった。
「おかえりなさい。ご飯温め直しますか?」
「いや、あんまり食欲無いからお茶漬けでも食べて寝るよ」
「そうですか」
元気の無い様子でフラフラとご飯をよそいお茶漬けを作るとら悠一さんは掻き込むようにそれを平らげた。
「悠一さん?」
そして気がつくと、悠一さんはソファーでいつの間にか寝息を立てていた。
「うーん、こしあん……つぶあんが……」
寝言でも、和菓子のこと言ってる!
悠一さんたら、和菓子の夢でも見てるのかな。
私はそっと、ソファーで眠る悠一さんにタオルケットをかけたのでした。
◇
「よーす」
そんなある日、閉店直後の店に制服姿の秋葉くんがやってきた。
「こんばんは。今日はどうしたんですか。バイトの日じゃないですよね」
「うっせぇなあ。この時期は悠兄も忙しいだろうと思って手伝いに来たんだよ」
秋葉くんは少し赤くなりながら乱暴に鞄を置く。
「ありがとうございます。助かります」
「悠兄ー、手伝いに来たぜ。何かやることとかある?」
秋葉くんが奥に向かって叫ぶと、小さく声がした。
「あー、ありがとう。果歩さんの手伝いでもしてて」
「私は大丈夫です」
慌てて返事をすると、少し間があって再び声が返ってきた。
「じゃあ、売上の入力、溜まってるからやっといて」
「あいよ」
秋葉くんが古めかしいパソコンの前に座る。
しんとした店内に、キーボードを弾くカタカタという音がこだました。
私は店内の締め作業を終えると秋葉くんのところへと向った。
「どうですか?」
「んー、もうちょっとなんだけど。果歩、お前パソコン分かる? ここ、数字が出なくなっちゃったんだけど」
チラリとパソコンの画面を見ると、秋葉くんが数字を打ち込んでいたのは、前の職場で嫌という程見たエクセルだった。
良かった。あんまり使ったことの無い会計ソフトとかだったらどうしようと思ってたけど、これなら私にも分かる。
「ああ。ここ、計算式消しちゃったんですね。前の行からコピーしてくれば大丈夫ですよ」
前の行から計算式を引っ張ってくると、秋葉くんは感嘆の声を上げた。
「おお、すげぇ」
「私も難しい計算式とかは分からないんですけどね。それぐらいなら」
もしかして今の子は携帯ばかりだから、あんまりパソコンを使わないのかな。
私は秋葉くんが四苦八苦しながら打ち込んでいる帳簿をチラリと見た。
「これを入力すればいいんですか?」
「ああ。ここの数字を入れるんだ」
秋葉くんは帳簿とパソコンの画面を交互に指さす。これなら私にもできそうだ。
「毎年この時期になると仕事溜め込むんだよなぁ、悠兄。そんで後からヒーヒー言うの」
「じゃあこれ、私がやっておきますよ。秋葉くん学生なんだし、早く家に帰ったほうがいいですよ」
「いや、俺はここでお前が間違わないか見ててやる」
にぃと唇を引き上げ笑う秋葉くん。
う……。
横で見られると、何だか緊張するなぁ。
肩がガチガチになりながらも、何とか入力を終える。思ったより入力の数は少ない。
「おお、早いな。お前、パソコン得意なのか?」
「得意って訳じゃないんですが」
むしろ前の会社では入力は遅い方だった。でもまさかその時の経験がこんな風に役に立つなんて。
私はトントンと帳簿をまとめた。これで溜まっていた仕事も大分捌けたはずだ。
「悠一さん、忙しいみたいですし、今度からはこれ、私が代わりにやったほうがいいですよね」
「ああ、そうだな」
これからどんどん忙しくなるだろうし、私もできる仕事を増やすように頑張らなくちゃ。
「悠一さん、入力終わりました。そちらはどうですか?」
無事入力も終わり、悠一さんの様子を見に行く。
何度か悠一さんの名前を呼んだけれど、返事はない。
また仕事に夢中になってるのかな。全く、和菓子のこととなると周りが見えなくなるんだから。
「……悠一さん?」
だけど厨房の中を覗き込んだ瞬間、背筋をゾッと冷たいものが走った。
「悠一さんっ!?」
私が見たのは、床に倒れ、動かなくなっている悠一さんだった。
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