第40話 甘い気持ちのわけを教えて

「ただいま。果歩さん、タオル持ってきてくれる?」


 悠一さんが玄関のドアを開ける音がした。降りしきる雨。悠一さんの後ろには、びしょびしょに濡れた咲さんが寄り添うように立っていた。心臓が嫌な音を立てる。


「あっ、はい。タオルですね、分かりました。あの、ドライヤーとかもいりますか?」


「咲、ドライヤーいる?」


 悠一さんが尋ねると、咲さんは青白い顔で首を横に振った。

 濡れた髪が、白く長い首や額に垂れる。雨でメイクはほとんど取れかかっているのに、咲さんはびっくりするほど綺麗だった。


「じゃあタオル持ってきます」


 ドギマギしながらバスルームにタオルを取りに行こうとすると、突然悠一さんが腕を掴んだ。


「ひゃっ」


「ごめん、実は咲に果歩さんのこと彼女だって言ってしまったんだ。悪いけど話を合わせてくれる?」


「わ、分かりました」


 咄嗟に返事をしたものの、よく考えるとそれだと私、悠一さんと付き合っていながら咲さんに協力しているという妙な立場になってしまうんだけど……。


 とりあえず新しいタオルを出してきて咲さんに差し出す。


「これタオルです。あとパーカーも。服が濡れてると寒いと思うので。あの、Tシャツとかも貸しましょうか」


 咲さんは幽霊みたいに血の気のない顔で私を見つめた。


「いえ、大丈夫。すぐに帰るから」


 ああ、やっぱり咲さん、怒ってるのかなぁ。


「そうですか。あの、私、向こうの部屋に行ってますか?」


「いやいいよ。気にしなくて」


 悠一さんが首を横に振る。

 気にしなくて良いって言われても、こっちは気にするんだってば。


 とりあえず咲さんにお茶を出して座るように促す。


「あ、そうだ。この間作ったプリンもあるから、もし良かったらそれも」


 私は冷蔵庫を開けると、作ったばかりの黒ゴマプリンを咲さんの前に出した。


「プリン?」


「はい。咲さん、和菓子は苦手って言ってたけど、プリンなら大丈夫かなと思って」


「え、ええ」


 黒ゴマをたっぷり使った黒いプリンに、咲さんはスプーンを差し込み、小さな口に一口入れた。


「おいしい。プリンって、自分で作れるのね」


「はい。思ったより簡単なんですよ」


 咲さんの表情が少し緩んだので、ほっとする。


 だけどすぐに鋭い顔つきに戻ると、咲さんは真っ直ぐに私を見つめた。


「なるほど。その料理の腕で悠一の胃袋を掴んだって訳なのね」


 心臓がドキリと跳ね上がった。


「いえ、料理上手というほどでは」


「悠一から聞いたの。あなた悠一の彼女だったんだ。同棲までしてるって。そうならそうと、早く言えばいいのに。バカみたい」


「……すみません。何だか言い出せなくて」


 悠一さんが咲さんの向かいに座ったので私も悠一さんの隣にちょこんと腰掛けた。何だか落ち着かない。


 悠一さんが怪訝そうな顔をする。


「どういうこと?」


「はい、あの、咲さんに二人の間を取り持つように頼まれて」


「何でそんなこと引き受けるの」


「だって」


 私と悠一さんがそんなことを言い合っていると、じわりと咲さんの目に涙が浮かんだ。


「あなた、私のことからかってたの? 元カレに執着する哀れな女だと、影で笑っていたんでしょう」


「い、いえ、そんなことは……」


 私は必死で言い訳を考えた。


「二人のことは親とかにも内緒にしてますし、誰にも言ってなかったので。それに私、頼まれると断れなくて」


 部屋の中を嫌な沈黙が流れる。咲さんはギュッと拳を握りしめ、悠一さんを見つめた。


「なるほど、分かったわ。悠一、ひょっとしてあなた、この子が内気であなたに逆らわずに家事をしてくれたり、黙って和菓子屋を手伝ってくれるから付き合ってるんじゃない?」


「咲、僕はそういう訳じゃ――」


「でもそれってどうなの。大人しくて逆らわないから結婚相手に選ぼうだなんて、この子が可哀想だわ」


 咲さんは大きくつぶらな瞳で悠一さんを見つめた。


「ねぇ悠一、私、この三年の間に変わったわ。大切なのは好きな人の側にいることだって気づいたの。今はこの店を手伝ってもいいとさえ思ってるわ」


 外では雨がザーザーと降っており、時折強い風が窓を叩く。


「だからお願い、やり直さない?」


 真剣な咲さんの瞳。私はゴクリとつばを飲み込み悠一さんを見つめた。

 悠一さんはびっくりしたように目を見開いた。そして小さく息を吐き出すと、ゆっくりと咲さんを見据えた。


「……咲、君は勘違いをしているよ」


「勘違いって?」


「果歩さんは、一見大人しく見えるかもしれないけど、自分の意見をちゃんと持ってるし、好きなものは好きと言える、芯の強い人だ」


 悠一さんは静かに、だがハッキリと言葉をつむいだ。


「僕が果歩さんを好きなのは一緒にいて安心できるからだ。ただ一緒にソファーに並んでテレビを見たり話しているだけで楽しいんだよ。だから――」


 悠一さんの瞳が真っ直ぐに咲さんを見すえる。


「だから僕は果歩さんと一緒にいたい」


 ドキリと心臓が鳴った。


 分かってる。これは咲さんを帰らせるためのただの方弁だ。悠一さんの本心じゃない。本気にしちゃいけない。だけど――


 嬉しかった。あまりにも嬉しくて。胸が熱くなって、心の底から力が湧き出してくるようだ。


 だから私も勇気を出して咲さんを見つめた。思い切って声を出す。


「あの咲さん、今日のところはこれで帰って貰えませんか?」


「何ですって?」


 咲さんの鋭い目線が私を見据える。その剣幕に、一瞬怯んでしまいそうになるけど、私は拳を握りしめ、言葉を続けた。


「私にとって、悠一さんは大切な人で……悠一さんには幸せになって欲しいと思っているんです。でも私には悠一さんに今のあなたは必要だとは思えないし、あなたにも悠一さんが必要だとは思えません。だから――」


 悠一さんは静かに頷いた。


「その通りだ。今の僕に必要なのは果歩さんなんだ。だから、帰ってくれないか」


 三人の間を沈黙が包む。雨音だけが、ただ激しく屋根を打ち付けた。


「そう」


 やがて怒ったような悲しいような顔で咲さんは立ち上がった。


「ならいいわ。冴えない人同士でせいぜい仲良くすれば」


 ツカツカと咲さんは玄関へと歩いていく。


「お邪魔しました。もう来ないから」


 バタンと大きく音を立て、扉が閉まった。


 咲さんが部屋から出ていき、部屋には妙な沈黙が残る。


 私は何もかもが信じられないような気持ちで、ポカンと口を開けて咲さんの出ていったばかりのドアを見つめた。



「……ありがとう、果歩さん」


 悠一さんの大きな手が、私の肩に優しく触れる。

 その温もりに、プツンと緊張の糸が切れた。全身を脱力感が襲い、目からは自然と涙が溢れてきた。


「はあぁ……どうなるかと思いましたよ」


「大丈夫? ごめん、咲が酷いこと言ったから」


「いいえ、違います。違うんです」


 私が泣きそうになっているのは、咲さんの言葉に傷ついたからじゃない。私は――


「私は、悠一さんの言葉が嬉しかったんです。例え咲さんを帰らせるための嘘でも、悠一さんが私の事あんな風に良く言ってくれて。私なんて全然――」


「嘘じゃないよ」


 悠一さんが強い口調で言う。


「確かにあれは咲を帰らせるために咄嗟に出た言葉だけど、全部、本当のことだよ」


 嘘だ。


 だって私には何も無い。


 咲さんみたいに美人でもないし、麻衣ちゃんみたいに明るくて可愛い訳でもない。


 私なんかじゃ――


「本当のことじゃないとあんな言葉、咄嗟になんか出てきやしないよ」


 悠一さんは、私の肩をそっと抱き寄せた。


「僕は果歩さんが好きなんだ」


 優しい瞳。添えられた手の温もり。まるで心の中にある氷砂糖を溶かすような、暖かな言葉が耳元に注ぎ込まれる。


 悠一さんが私のことを?


 そんな、まさか。


「う、嘘だぁ……」


 嬉しいという気持ちと、そんなはずないという気持ち。色んな気持ちがごちゃ混ぜになって、わけも分からないまま、目からはポロポロと涙が溢れてくる。


「本当だよ」


 戸惑う私を、悠一さんはそっと抱きしめた。その瞬間、何か柔らかくて暖かい感情が胸の奥から湧き出てきた。


「全部、本当だよ。僕には果歩さんが必要なんだ」


 頭の中が真っ白になる。

 本当に? 本当に私でいいのだろうか。夢じゃないよね?

 私は悠一さんの言葉を噛み締めると、震える声で返事をした。


「はい……」


 言いたいことは沢山あったけど、言葉は出てこなかった。

 代わりに溢れたのは、熱くて、甘くて、幸せな、今まで感じたことの無い気持ち。


 何だろう。心の底に、まるで金平糖みたいに、甘くてキラキラしたものが溢れ出す。


 甘いお菓子は沢山知ってるけど、こんな甘い気持ちは初めてで――


 その時私は思ったのだ。



 ああ、誰か教えて。









 この甘い気持ちのわけを誰か教えて。









 そんな風に思って――



 生まれて初めて、私はお菓子よりも甘いものを知ったのでした。

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