第3話 アルバイトの募集
「こんにちは」
そして空気の澄み切った夜、私は久しぶりに再び兎月堂へとやってきた。
その日は、会社の契約の切れる月末が迫っていて、私はアパートを引き払い、田舎に帰る決心を固めていた。
この街には大学生のころからかれこれ八年も住んでいる。
大きすぎず、小さすぎず、ほどよく田舎でほどよく都会。コンパクトな街には、暮らすのに必要な店はだいたい揃ってる。そして何より、人が暖かい。
もっとこの街にもっと住みたいと思っていたけど、こうなったら仕方がないよね。
でもせめて最後にこの店のおはぎを食べてから帰ろう。
あの日食べたおはぎの味がどうしても忘れられず、私は再び兎月堂の暖簾をくぐった。
「いらっしゃいませ」
店頭にはいつもの背の高い男の人が立っていて、私の姿を見ると人の良さそうな笑みを浮かべた。
そういえばこの店、いつもこの店員さんしかいないな。ひょっとして、この人が一人でやっているのだろうか?
そんなことを考えながら店内を見ていると、ふと店の隅っこに貼られているポスターに目が行った。
『アルバイト募集中』
ドクン。
心臓が鳴った。
張り紙をしげしげと見つめる。
やっぱり。人手が足りて無いんだ。
「どうかしましたか」
店員さんがニコニコと話しかけてくる。
「いえ。今日はどれにしようかなって」
ペコリと頭を下げ、和菓子たちに目を移す。
いけないいけない。契約が打ち切られると決まってからというもの、どうにも求人情報にばかり目がいってしまう。
「どうしたんですか? 少し、思いつめたような表情をしているようですけど」
「えっ」
店員さんに指摘され、心臓が飛び跳ねる。
参ったな。そんなに深刻な顔をしていたつもりは無かったんだけど。
「実は私、もうすぐ会社から契約を打ち切られて、実家に帰るんです。本当はこの街にずっと居たかったんですけど……」
思わず口走って後悔する。
しまった。そんなプライベートな事まで話す気は無かったのに、私ったらつい余計なことを。
でもきっと、誰かにこの辛い気持ちを話したかったのかもしれない。
知り合いよりも、見ず知らずの店員さんの方が話しやすいってこともあるし。
「なるほと、それで何となくモヤモヤした表情だったんですね」
「そうなんです。次の就職先がすぐ見つかれば良かったんですが……」
そう、最初のうちは、私が学生の頃と違って、今は売り手市場だと聞いていたから、次の就職先も簡単に決まると思っていた。
結局、それは大きな間違いで、次の仕事は全然見つからない。
やっぱり実家に帰る他ないんだろうな。
「じゃあどうです? うち、アルバイト募集してますけど」
すると店員さんがアルバイト募集の貼り紙を指ささし、冗談めかして言う。
「うーん、和菓子は好きなんですけど」
私は曖昧な笑みを浮かべた。和菓子に囲まれて働くのも面白そうだけど、アルバイトじゃねぇ。
「ここ、そんなに人手が足りないんですか?」
「ええ。ここは元々、両親がやっていた店なんですが、二人が亡くなってからというもの、僕一人で店を切り盛りしているので」
「そうなんですか。大変じゃないですか?」
「ええ。仕込みもレジや接客も全部僕一人でやってるので。さすがに混雑する土日は弟や兄が手伝ってくれてはいるんですが」
それを聞くと、何だか可哀想になってくる。
私はこの店で働く自分を想像してみた。
大好きなお菓子に囲まれて働く生活。悪くないかもしれない。もし主婦や学生だったら、絶対ここでアルバイトしてたと思う。
でも――私は主婦でも学生でもない。二十六歳の独身女だ。一人暮らしをして家賃を払うことを考えると、アルバイトだけじゃとても暮らしていけるとは思えない。
「そうなんですか。できれば私もお手伝いしたいですけど……でも家賃のこともあるし、一人暮らしを続けるとなるとアルバイトだけじゃとても」
「そうですか」
あからさまにガックリと肩を落とす店員さん。
「ごめんなさい」
「あ、でもこの店、二階が住居になってるんですよ。だからもし宜しければそこに住まれてはいかがですか」
「えっ」
思いもしない提案に、少し驚く。
「実は僕もこの上に住んでるんですけど、部屋が一つ余ってるんです。どうですか、上に住めば家賃も通勤時間もゼロですし」
悠一さんが天井を指さした。確かに家賃がかからないのは魅力的だ。
だけどあまりにも急で、考えがまとまらない。
「えっと、考えておきます」
「そうですか。もし良かったら、就職先が決まるまでの繋ぎでもいいので」
店員さんはメモに連絡先を書いて私に握らせた。
「……はい」
私は呆気にとられながらメモを受け取った。
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