第2話 優しい味
恐る恐る兎月堂のドアを開ける。中には一人もお客さんがいない。それどころか店員さんの姿すら見えない。
「あのー、お店ってまだやってますか?」
しんとした薄暗い店内。不安になって声を出すと、紺色の作務衣に黒いエプロンをつけた男の人が出てきた。
「いらっしゃいませ」
年は私と同じくらいか少し上だろうか。
スラリとした長身に、少しくせっ毛の黒い髪。タレ目気味の優しそうな瞳に、スッと通った鼻。
男の人にあまり興味のない私にも、整った顔立ちだということが分かった。
「店は六時までなので、まだやってますよ」
時計を見ると、時刻は六時五分前だった。
「す、すみません。急いで選びますので」
「ゆっくりでいいですよ。今日はお客さんもそんなに居ないですし」
慌てて商品を選ぼうとした私に、店員のお兄さんはふわりと笑った。
あっ、満月みたいだ。
何となく、そんなふうに思った。
男の人の顔を月に例えるなんておかしい気もするけど、咄嗟に頭に浮かんだのが満月だった。夜道を照らす、ぱっと明るくて優しい笑顔。
「何かお探しですか?」
「いえ、たまたま入っただけで、特には」
ハッと我に返った私は、ショーケースの中に並んだ色とりどりの和菓子を眺めた。
お饅頭に最中に、お団子。どれもキラキラと美味しそうに輝いていて目移りしてしまう。
「良かったら、ご試食いかがですか?」
「良いんですか?」
「ええ。どうぞ」
店員さんが切り分けてくれたのは、つやつやの餡子が乗ったおはぎだった。
「おはぎですか……」
何となく気分が乗らないな、そう思っていると、店員さんは不思議そうな顔をした。
「どうしたんですか?」
「いえ、実はおはぎって少し苦手で……でも、せっかくだし、食べてみます」
気分は乗らないけど、せっかく出されたものだし。
しぶしぶおはぎを試食してみる。
すると、トロリと上品な舌触りで甘過ぎない
な、何これ。美味しいっ!
「どうですか?」
「あ、はい。美味しいですっ!」
私はドギマギしながら答えた。
「その……口の中でサッと溶ける甘過ぎないあんこと香ばしいお餅のバランスが絶妙で……」
「ありがとうございます。ここの小豆は北海道産なんですが、季節によって仕入れ地を変えているんです」
「へー、そうなんですか?」
「ええ。豆を煮る時間も、小豆の状態によって細かく変えたりして、こだわってるんです。餅米は親戚の家で育てているもので」
「そうなんですね」
私が感心して頷いていると、店員さんは照れたように笑った。
「ああ、ごめんなさい。若い女の子にはつまらないですよね、こんな話」
「いえ、とんでもない。興味深いです」
くだらない噂話だとか人の悪口は苦手だけど、大好きな甘いものの話だったらいくらでも聞ける。
「もし良かったらお茶もとうぞ」
店員さんにすすめられるがままに緑茶もいただく。
豊かな香りとほのかな苦味が、甘いおはぎにぴったりで、なんだかホッと心が落ちつく。
と、ふと店員さんがじっと私の顔を見つめていることに気づいた。
「あの、私の顔に何か」
恐る恐る聞いてみると、店員さんは照れたように笑った。
「いえ、すみません。いい笑顔だなって思って」
思わず顔がかぁっと熱くなって下を向く。
「いえ、そんなこと……」
うーん、さすが商売人。お世辞が上手いなぁ。きっとこの人はこうやって、何人ものマダムを虜にしてきたに違いない。
「お客さん、お店に入ってきた時には少し元気のない感じでしたから」
「そ、そうですか?」
「気のせいだったらすみません。でも疲れた時やストレスを感じた時には甘いものが一番ですから。それで元気が出たなら嬉しいです」
「はい。少し元気になったみたいです」
まさか知らない店員さんにまで心配されていたなんて。
私は深呼吸をしてお菓子に視線を戻した。
不思議だな。ただ甘いものを食べただけなのに、こんなにも心が落ち着くなんて。
「えっと、じゃあこのおはぎをください。八個入りのを一つ」
私は八個入りのおはぎを指さした。一つだけ買うというのもいかにも寂しい女みたいで恥ずかしい。
一人だと多すぎるけど、余ったら明日職場に持って行ってみんなで分ければいいかな。
店員さんは丁寧におはぎを包んだ。
「ありがとうございます。また来てくださいね」
「はい。また来ます」
おはぎの包みを抱え、ぼうっとしながら店を出る。
「いいお店を見つけちゃったかも」
今まで知らなかったお店を開拓するのってなんて楽しいんだろう。それにあんなに美味しいお菓子があって――店員さんも感じのいい人だったし。
私はおはぎの包みを抱え、軽い足取りで家へと帰った。
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