雨の日のチョコチップ・クッキー

砂原さばく

 朝から降り続けていた雨が、夕方になってようやく上がった。

 動きはじめた雲の底が、沈む頃になって顔を出した夕日でほんのりとオレンジ色に染まっていた。ところどころにできた水たまりが光を反射して、帰り道の街はいつもより綺麗に見えた。今日の雨がこの街を洗い上げたみたいだ、と僕は思った。


 雨はそんなに好きじゃないけれど、雨上がりは好きだ。晴れた日とは少し違う明るさとか、しっとりと濡れた空気とか、たたんだ傘を腕にかけて足早に歩く大人とか、小さな雨靴を履いて水たまりに飛び込む子供とか、そんなものの全部が愛おしくて、意味もなく雨上がりの街に散歩に出かけたりしてしまうくらいに。

 ただ、電線から落ちてくる水滴だけはどうしても好きにはなれないから、電線の下は歩かないことにしている。


 あちこちでちかちかしている窓ガラスを眺めながら、僕は自転車を押して歩いた。濡れた落ち葉が自転車のタイヤの下でいつもと違う音を立てているのがなんとなく楽しくて、わざと道のはしっこの落ち葉がたまっているところばかり進んでみる。そんなことをしているのは、とても子供っぽいような気がしたけれど、恥ずかしさよりも楽しさの方が今の僕には大事だった。どうせ、誰も僕のことなんか見ていないのだ。


 そう思って、落ち葉を蹴散らしながら歩いている僕の耳に、聞きなれない声が飛び込んできた。


「あの、すみません。お時間あります?」


 僕はびっくりして、うっかり足を滑らせるところだった。なにしろ、濡れた落ち葉の上は危ない。楽しいから、なんて理由で年甲斐もなく遊んでいたことにいまさら腹を立てながら、僕は「はい、なんでしょう」と言って、何でもないふうをつくろって振り向いた。


 そこにいたのは、僕の手を広げたくらいありそうな、大きなチョコチップ・クッキーだった。


「ちょっと、おうちまでお邪魔したくてですね、大丈夫ですかね」


 チョコチップ・クッキーは、僕から1メートルくらい離れたところで、ちょうど僕の胸あたりにふわふわと浮かんで、頼りなさそうに揺れていた。スプーンですくってそのまま落としたみたいな、ぼってりとした厚みのあるアメリカンなクッキーだ。幼い頃の僕はこんなクッキーを絵本で見て、母親にねだったことがあるような気がする。そのチョコチップ・クッキーは、どこに口があるのかもわからないけれど、間違いなく僕に話しかけていた。


「大丈夫ですかね」


 チョコチップ・クッキーはよほど急いでいるのか、もう一度繰り返した。僕はそこでやっと口を開くことができたが、しばらくはぱくぱくと動かして何の意味もなさない音しか出せなかった。空飛ぶ巨大チョコチップ・クッキーに話しかけられてすぐに正しく対応できる人がいたら、その人に「ヘイ、パス」とかなんとかやって代わりに対応してほしいくらいだ。

 だが、そんな人がいるわけがないし、そもそもここにいるのはチョコチップ・クッキーの他には僕だけだ。僕は覚悟を決めて、脳みそをフル回転させた。もちろん、チョコチップ・クッキーに返事をするためだ。


「大丈夫ですけど、うーんと、何の用でしょう」


 それなのに、僕がようやく絞り出せたのはこれだけだった。情けない話だ。だが、チョコチップ・クッキーはふるふると震えて、僕との距離を30センチくらいまで縮めてきた。僕は思わず後ずさりしそうになったけれど、道の端を歩いていたせいでそれだけの余地がなかった。諦めて、決して狭いとは言えない僕のパーソナルスペースに侵入してきたチョコチップ・クッキーと話を続けるしかない。

 チョコチップ・クッキーは右に回ったり左に回ったり、しばらくもじもじしているような動きをしたあと、小さな声で恥ずかしそうに言った。


「……ちょっとその、ドライヤーを貸してほしくて」


 ドライヤー、と僕は繰り返す。チョコチップ・クッキーは頷いた。少なくとも、チョコチップ・クッキーが頷いた、と僕は思った。しばらく沈黙が続いた。チョコチップ・クッキーは何も言わなかったし、僕も何も言わなかった。落ち葉が風で飛ばされていく音だけが、僕とチョコチップ・クッキーの間に流れていた。

 どのくらいかわからない沈黙のあと、「いいですよ、」と僕は言った。「僕もこれから帰るところだし」


「本当ですか」


 チョコチップ・クッキーはほんの少し声を上ずらせ、それと同時に10センチくらい上昇した。だいぶ嬉しいみたいだ、と僕は思った。チョコチップ・クッキーは何回かくるくると回って、また元の位置に落ち着いた。


「ありがとうございます、今日の雨で濡れちゃって、うまく飛べなくて……これで帰れます、ありがとう、本当にありがとう」

「そうか、それならよかった」


 僕は自分が笑っているのに気付いた。こんなにかわいいチョコチップ・クッキーを他に見たことがなかったし、チョコチップ・クッキーがかわいいというのも初めて知ったことだった。たぶん、僕も嬉しかったのだ。チョコチップ・クッキーにドライヤーを貸してやって、チョコチップ・クッキーが家に帰るための手伝いをできることが、僕も嬉しかったのだ。


「飛べないなら、かごに入りますか」


 僕が自転車のかごを指し示すと、チョコチップ・クッキーはすこしためらうような動きを見せた。それを視界の端にとらえながら、チョコチップ・クッキーが削れてしまわないように、かごの中にタオルハンカチをひいてやると、チョコチップ・クッキーは安心したらしい。「ありがとう、助かります、本当に」と言って、すとん、とハンカチの上に着地した。

 僕はまた歩き出した。落ち葉を蹴散らすのをやめて、なるべくがたがたしていないところを選んで、濡れてやわらかくなっているチョコチップ・クッキーが崩れてしまわないように細心の注意を払いながら、暗くなりはじめた街をいく。


 ふと見上げた空は青っぽくなっていた。まだ太陽が残っている地平線の近くの黄色と、空の上の方の青色は途中で混じり合って、その鮮やかでないグラデーションはもう冬がすぐそこまでやってきていることを教えてくれていた。


「夜って、空のてっぺんから降りてくるんですね」


 チョコチップ・クッキーがつぶやいた。そうですね、と僕は答えた。雨上がり特有のしんとしたなめらかな空気はだんだんと冷えてきて、呼吸するたびに鼻の奥がすこし痛んだ。

 それから家に辿り着くまで、僕もチョコチップ・クッキーもしゃべらなかった。

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