向靖2 守備隊長
守護の任についた。駐屯は
その二年後には
向靖を
もともと
激しかった辺りであり、
「劉裕の出払った隙に
良からぬことを企む」
勢力に向けてのにらみを
利かせる形となっている。
その翌年、劉裕が北伐に出ると、
いずれも劉裕の後方を
守る位置についている。
そして北伐が完遂されると
今度は一転して、
だが421年、任地にて死亡。
59歳だった。
豪華な邸宅を建てることもなく、
荘園経営や商業にも
見向きをしなかった。
そのため、
時の人びとより称賛された。
義熙八年,督馬頭、淮西諸郡軍事、龍驤將軍、鎮蠻護軍、安豐、汝陰二郡太守、梁國內史,戍壽陽。十年,遷領石頭戍事。高祖西伐司馬休之,以彌為吳興太守,將軍如故。明年,高祖北伐,彌以本號侍從,留戍確磝,進屯石門、柏谷。遷督北青州諸軍事、北青州刺史,將軍如故。永初二年,卒官,時年五十九。彌治身儉約,不營室宇,無園田商貨之業,時人稱之。
義熙八年、馬頭、淮西諸郡軍事を督し、龍驤將軍、鎮蠻護軍、安豐汝陰二郡太守、梁國內史となり、壽陽を戍す。十年、遷じ石頭戍事を領す。高祖の西に司馬休之を伐ちたるに、彌を以て吳興太守と為し、將軍は故の如し。明くる年、高祖の北伐せるに、彌を本號を以て侍從せしめ、留め確磝に戍せしめ、進みて石門、柏谷に屯ず。督北青州諸軍事、北青州刺史に遷じ、將軍は故の如し。永初二年、官にて卒す、時に年五十九なり。彌は身を治め儉約し、室宇を營まず、園田商貨の業無くせば、時の人は之を稱う。
(宋書45-19_寵礼)
任地がどこもかしこも「攻め」よりも「守り」の腕前が問われる所に配されている。特にすごいのが司馬休之戦の呉興配置。これ、完全に
また北伐で
前半で攻め手のすごさばかりが強調されているけれども、正直もう少しこの人の守備戦実績を教えて頂きたかったもんである。いや、この経歴改めて見るとヤバいっすよこの人……。
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