王鎮悪12 王鎮悪殺害
その補佐に地元人の
軍の責任者に
言い換えれば、長安守備の責任者である。
劉裕が
後秦は内憂外患の真っ只中にあった。
内にては皇族同士の権勢争い。
外では
そして
はじめ後秦に臣属していた赫連勃勃。
やがて反旗を翻すと、後秦軍の将兵を
次々に屠って行った。
長安に劉裕軍が迫ってきたところで
いったんは鳴りを潜めたものの、
劉裕軍本隊が長安から撤収すると
再び長安の北を荒らし始めた。
そこで劉義真、
防衛の任に当たらせた。
とは言え、赫連勃勃軍は強盛。
まともに当たるわけには行かない。
そこで沈田子、
合わせて王鎮悪に状況を報告した。
これを聞いた王鎮悪、王脩に言う。
「僅か十歲の劉義真様を担ぎ、
我らは防衛を任ぜられています。
これは各々が思考の限り、
力の限りを尽くし、この長安を
守るように、との劉裕様の思し召し。
だというのに、沈田子めは
兵を抱えて、砦に引きこもってばかり!
これでどうして、
蛮夷を蕩平できましょうか!」
使者は沈田子のもとに戻ると、
王鎮悪のコメントを、つぶさに伝えた。
もともと仲の悪かった、
沈田子と王鎮悪である。
こんな話を聞けば、当然大激怒である。
そしてこの二人、常々お互いを
隙あらば殺そう、としていた。
それ故にこそ、常に警戒をしていた……
の、だが。
ったく、仕方ねえなぁ。
王鎮悪、手勢を引き連れ、
沈田子の加勢に出向いた。
こんなタイミングで事には及ぶまい、
そう考えていたのだ。
だが、沈田子。やった。
そういうタイミングで。
王鎮悪、殺害。享年46。
このとき、合わせて兄の
弟の
いとこの
あわせて7人も一緒に殺された。
418年1月15日のことだ。
高祖留第二子桂陽公義真為安西將軍、雍、秦二州刺史,鎮長安。鎮惡以本號領安西司馬、馮翊太守,委以捍禦之任。時西虜佛佛強盛,姚興世侵擾北邊,破軍殺將非一。高祖既至長安,佛佛畏憚不敢動。及大軍東還,便寇逼北地。義真遣中兵參軍沈田子距之。虜甚盛,田子屯劉回堡,遣使還報鎮惡。鎮惡對田子使,謂長史王修曰:「公以十歲兒付吾等,當各思竭力,而擁兵不進,寇虜何由得平!」使還,具說鎮惡言,田子素與鎮惡不協,至是益激怒。二人常有相圖志,彼此每相防疑。鎮惡率軍出北地,為田子所殺。時年四十六。田子又於鎮惡營內殺鎮惡兄基、弟鴻、遵、淵及從弟昭、朗、弘,凡七人。是歲,十四年正月十五日也。
高祖は第二子の桂陽公の義真を留めて安西將軍、雍秦二州刺史と為し、長安に鎮ぜしむ。鎮惡は本號を以て安西司馬、馮翊太守を領し、捍禦の任を以て委ぬ。時に西虜の佛佛が強盛たれば、姚興が世にて北邊を侵擾し、軍を破り將を殺したること一に非ず。高祖は既にして長安に至り、佛佛は畏憚し敢えて動かず。大軍の東に還ぜるに及び、便ち北地に寇逼す。義真は中兵參軍の沈田子を遣りて之を距がしむ。虜は甚だ盛んなれば、田子は劉回堡に屯じ、使を遣りて報を鎮惡に還ぜしむ。鎮惡は田子が使に對え、長史の王修に謂いて曰く:「公は十歲が兒を以て吾らを付したれば、當に各おのが思いて力を竭くすべかれど、兵を擁けど進まざらば、寇虜を何ぞの由にてか平らぐを得んか!」と。使の還ずるに、具さに鎮惡が言を說く。田子は素より鎮惡と協ぜざらば、是に至りて益ます激怒す。二人は常に相い圖りたらんの志有れど、彼と此は每に相い防疑す。鎮惡は軍を率い北地に出づらば、田子に殺さる所と為る。時に年四十六なり。田子は又た鎮惡が營內にて鎮惡の兄の基、弟の鴻、遵、淵、及び從弟の昭、朗、弘の凡そ七人を殺す。是の歲、義熙十四年正月十五日なり。
(宋書45-12_仇隟)
この辺さらっと終了してるんですが、沈田子伝ではかなり別の見え方が示されています。劉裕サマもいろいろ生臭くて良いのです。良いのです……(うっとり)
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