劉裕81 魏:島夷死ぬ  

司馬徳宗しばとくそう(安帝)が死ぬと、

劉裕りゅうゆうは弟の司馬徳文しばとくぶん(恭帝)を立てた。


その上で、自らには十郡の封地を載せた。


劉裕は副官の傅亮ふりょうを建に派遣。

自らを皇帝の隣に立たせるよう要求。


後日、司馬徳文は劉裕に禅譲。

そうの国号を自称、永初えいしょと定めた。

これは我ら北魏ほくぎで言うところの

泰常たいじょう五年に当たる。


劉裕は皇帝を自称すると、

北魏にたびたび和議を申し出てきた。

そこで拓跋嗣はこれを許可。


沈範しんはん索季孫さくきそんと言った者たちが

使者としてやって来、朝貢をなした。


泰常七年五月に劉裕は死んだ。




德宗死,裕立德宗弟德文,裕又自增十郡。裕遣司馬傅亮赴建業,令徵己入輔。德文禪其位,遂自號為宋,改年為永初,時泰常五年也。裕既僭立,頻請和通,太宗許之。裕遣其中軍將軍沈範、索季孫等朝貢。七年五月裕死。


德宗の死にたるに、裕は德宗の弟の德文を立て、裕は又た自ら十郡を增す。裕は司馬の傅亮を遣りて建業に赴かしめ、令し己が入輔を徵ぜしむ。德文は其の位を禪り、遂には自ら號して宋と為し、年を改め永初と為す、時にして泰常五年なり。裕の既にして僭立せるに、頻りに和通を請い、太宗は之を許す。裕は其の中軍將軍の沈範、索季孫らを遣わせ朝貢す。七年五月裕死す。


(魏書97-9_衰亡)




建康のことを「建業」と呼び続けるのは、つまり晋帝が皇帝ではないから避諱をする理由がない、と言うこと。それはいいのだけれど、これって間違いなく同時代性観点ではないよね。拓跋珪、拓跋嗣時代にそこまで明確に「正統性」は確立していないと思うし、するとあえて晋の避諱をはねのける意味もない。この辺の呼び方は、早くても拓跋宏以降のことなんだろう。ほんに、晋書宋書もそうだけど、考古資料との突合せによる史料批判が進んでほしいよなー。

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