劉裕68 崩御
「
大きな戦略を描けるような人間ではない。
また兄の
統御しがたい人間ではない。
まず叛意などないだろう。
非常に機略に通じている。
叛意が芽生えるとしたら、
おそらくこの男からだ。
左遷しておいた方がいいだろう」
またこのようにも語った。
「朝廷のほかに幾つも
府がある必要はない。
宰相には
甲士千人を配備するように。
要職を負う大臣に
護衛が必要であれば、
征討を為す際には同じく
台城の兵を用い、
事が済めば再び台城に戻すこと。
後世に幼主が立つようであれば、
政は宰相に委ね、
くれぐれも母后を臨朝させ
政務を煩わせることがないように。
帯刀のまま宮中に入れぬように。
要職に就くものには班剣を支給せよ」
そして後日、劉裕は
六十歳であった。
上疾甚,召太子誡之曰:「檀道濟雖有幹略,而無遠志,非如兄韶有難御之氣也。徐羨之、傅亮當無異圖。謝晦數從征伐,頗識機變,若有同異,必此人也。小卻,可以會稽、江州處之。」又為手詔曰:「朝廷不須復有別府,宰相帶揚州,可置甲士千人。若大臣中任要,宜有爪牙以備不祥人者,可以臺見隊給之。有征討悉配以臺見軍隊,行還復舊。後世若有幼主,朝事一委宰相,母后不煩臨朝。仗既不許入臺殿門,要重人可詳給班劍。」癸亥,上崩于西殿,時年六十。葬丹陽建康縣蔣山初寧陵。
上の疾い甚しかれば、太子を召じ之に誡めて曰く:「檀道濟は幹略を有せると雖も、遠志無く、兄の韶の如き難御の氣を有せるに非ざるなり。徐羨之、傅亮にては當に異圖無し。謝晦は數ば征伐に從い、頗る機變を識る。若し同異有りたらば、必ずや此の人なり。小しく卻け、以て會稽、江州に之を處すべし」と。又た手ずから詔を為して曰く:「朝廷にては須く復た別府を有さず、宰相は揚州を帶び、甲士千人を置きたるべし。若し大臣の任要せるに中り、宜しく爪牙の有せるを以て不祥人に備うるらば、臺を以て隊を之に給せるを見るべし。征討せるに悉く臺を以て軍隊を配せるを見、行きたらば還じ舊に復すべし。後世に若し幼主有らば、朝事は一に宰相に委ね、母后の臨朝に煩ぜざるべし。仗の既にして臺の殿門に入りたるを許さず、要重の人には詳らかに班劍を給すべし」と。癸亥,上は西殿にて崩ず、時に年六十。丹陽の建康の縣蔣山の初寧陵に葬る。
(宋書3-5_衰亡)
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