劉裕66 零陵王薨ず   

しん恭帝きょうてい司馬徳文しばとくぶんが死んだ。


劉裕りゅうゆうは三日間、臣下らを率いて

朝堂にて葬礼を執り行った。


その行いは、

明帝めいていかん献帝けんてい

葬儀にて執り行った形式を踏襲した。




零陵王薨。車駕三朝率百僚舉哀于朝堂,一依魏明帝服山陽公故事。


零陵王は薨ず。車駕は三なる朝、百僚を率いい哀を朝堂にて舉ぐ。一に魏の明帝の山陽公に服したる故事に依る。

(宋書3-3_傷逝)




とことん順番通りにいくので、なんでこんな平板な記述がエピソードに乗るのか、みたいな感じにはなるわけですが、ねぇ? 何せ劉裕、司馬徳文のこと毒殺してますものね。その劉裕が喪主となって葬儀を行うとか、もうヤバすぎてね。


宋書武帝本紀でこの辺に全然触れずに、のちの褚裕之ちょゆうし伝とかで触れてる辺りに、この王朝の冒頭に存在する闇の深さがあっていいよね。まぁただ、「なにも殺さなくてもいいでしょうに」って意見はちらほら見かけるけど、例えば後秦こうしん討伐の総指揮官として推戴してたりとか、俺らがいま思うほどに司馬徳文の名声って小さからぬものがあったのではないかな。それは早くから劉裕の傀儡と化さざるを得なかった同情心からくるものでもあったのかもしれないけれども。


例えば、この簒奪劇に関して、詩人の陶淵明とうえんめいは「アホじゃねえのかくたばれ劉裕」みたいなことを詩にあらわしていたりする。そう考えると、晋を惜しむ声と言うのは決して小さくなかったのだろう。二王三恪におうさんかくの制度がある以上、零陵王家は保管されなければならない。けど、その威光を極小化させなければ、結局自分が桓玄かんげんになる恐れもある。


うん、さすがに司馬徳文は殺しておかないとヤバかったとは思います。まぁただそう言う振る舞いが「少帝しょうていを廃位のうえ殺害」なんて言う、皇帝位の軽さをヤバい勢いで加速させちゃった原因にもなったとも思いますけど。



車駕しゃが

宋書は劉裕の位が上がるごとに公、王、上と呼称を変え、皇帝即位後の事跡を語る時は「帝」とすら呼ぶのも畏れ多いという事で、外出の折に乗っている乗り物、即ち「車駕」を劉裕の敬称代わりに用いている。最初ここを把握できなかったせいで「あれ宋書武帝紀下巻、全然劉裕のこと語ってなくね?」ってパニクったもんです。

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